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昭和30年、40年代は私の夢いっぱいの幼き頃、そして青春時代・・・
このページは多分私の幼き頃の想い出になりそうです。
あの時代の田舎、農家の人々、そして遊びや学校風景
のどかなあの時代を伝えられたら・・・
思いつくまま不定期更新で書いていこうと思います。

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【昭和の風景・友達の輪!】
昭和の風景”を読んでくださった皆さんから、
様々な感想をいただきました。
掲示板に書いてもらった感想をまとめました、ご覧下さい。

掲示板
『掲示板』では皆さんからの、素敵な想い出の書き込みがあっています。
管理人はワクワクしながら眺めています。
どうぞお立ち寄り下さい。お待ちしています。
                                             
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==タイトルをクリックして頂くとそれぞれがご覧になれます。==

01検査日【1】
04.学級文庫
07.分校生と"愛の餅
10.農繁期の休暇
13.粉末シャンプーとジュース
16.修学旅行
19.固形石鹸と中世洗剤
22.魚屋さん
25.中学三年生
28.東京オリンピック
31.アイロンとは?寝押し

34冬は漬物の季節
37.つぎあて*ほころび
40.赤帽とチッキ
43.ひび・しもやけ・あかぎれ
46.お弁当
49.教科書は無償
02.検査日【2】
05.皇太子妃
08.地区児童会
11.学級委員の選挙【1】
14.流行歌と映画
17.荷台に乗った小学生
20.狂犬病予防注射
23.馬、牛、馬車
26.弁当:学校給食:のりたま
29.おせったい
32.私の小学生*冬
35.ぬりえ
38.美容:テーブルマナー

41.蚊帳:セミとり
44.しば刈り・縄
47.年賀状
03.肥え担ぎ
06.登校日でした。
09.尺貫法がメートル法に・・・
12.学級委員の選挙【2】
15.行商のおばさんはかつぎやさん
18.学校林
21.クラブ活動
24.蛇の目傘とこうもり傘
27.紙幣のお話
30.家庭科初めての作品はパンツ
33.小学生の冬

36.麦ふみ
39.ホタル:どんこ釣り
42.アイスキャンデー:おむつカバー
45.小学一年生:図画の時間
48.たのもし講
                   


検査日【1】 2004/01/09
小学校ではいろんな検査がありました。今日は”検便”の話です。
容器に採り・・は今では”がん検診”ですね。
あの頃の検査は”十二指腸虫卵、回虫卵”です。
トイレは”大も小も、そのまま下に落ちる”ペッタン便所なんてその頃言ってましたが・・・
これでは便の採取方法が出来ません。
家の側の畑です。終えたら木の棒で採り、アサリの貝の中に入れ、マッチ箱に
入れ、名前を糊ではり、学校へ提出。
私の田舎は海辺ではなく、山間の村。アサリの味噌汁を食べたら、”検便容器”にと
大事に残してましたね。田舎です。子供の為に”貝殻ちょうだい・・”なんて
お隣さんに頼むなんてことも事もありましたね。
その後、貝に入れたら”燃やせないから”とマッチ箱にじかに
入れるようになりました。その時集められてた便の始末が燃されてた事を知りました。

虫卵がみつかった人は薬を渡され家庭で飲むだったのですが、”十二指腸虫卵”の
人は保健室に集められて”そちらで薬を飲む”でした。
どうしてそういう事がされてたのかはわかりませんが、そんな人らは全校生の中で
僅かの人達。皆に知れてかわいそう!!小学生でしたがそう感じた覚えがあります。

その時、すごい事がありました。私って、こんな話?良く覚えてるんだね。
ヤンチャで暴れん坊の春男くん
(彼の名は春男くんとしときましょう。小学校時代のお話。彼を登場させたら、
 あの頃のお話、バッチリ伝えられそうですから・・(笑い)
”先生との約束はまもりましょう”あの頃の子供ってとっても素直!!
春男くん、お約束の日に”大の方”がでなかったようです。
彼は”犬のうんち”を採って提出しました。
職員室に呼ばれた彼がどうなったか・・先生から私らにその事情は伝えられる事が
なかったのですが、そこは春男くん、”犬のうんち”の話を得意になって皆にして
教室中を大騒ぎにしました。
”犬のうんち”ではばれる・・なんて事、彼はあの時考えたかどうか・・・
大人になってる今だから、わかる事かも知れなくて・・・
とにかくこんなすごい、たくましい男の子達と、同級生でした。
あの頃の子供達って学校が大好きだったと思います。
そんな彼、きっと今頃は”大物”になってそうです。

小中学校の頃のお話をしながらあの時代を書いてみようかと思います。

検査日【2】 2004/01/10 
小学校の頃は健康に関するいろんな検査がありました。
虫歯、寄生虫、しらみ、トラコーマ
トラコーマって眼の病気なんですが、記憶違いではいけないと思いつつ、
医学書を開いたのですが書かれていませんでした。
しらみも、医学書にはありませんで、こういうのは絶滅されたのでしょうね。
(トラコーマって間違ってないですよね。心配しつつ、書き込んでいます)
トラコーマ・・家族にも伝染するからと、言われてました。
”タオル類は別々”になんて言われていました。
トラコーマに感染してる子供は昼休み保健室行きです。
先生はガラスの棒らしきものに薬をつけ、眼に入れます。つけおわれば眼を
綿花でもんで治療終わり。
男の子も女の子もきちんと守り、保健室通いを続けていましたね.

”しらみ”あの頃の女の子って、おかっぱ頭か、お下げ髪。
”しらみ”のいる子にとっては、きつい検査。廊下に並んだ女の子の髪の中を
保険の先生が一人一人調べていきます。みつかれば白い粉をふりかけられます。
髪の毛の白くなった子は一日中、皆の眼にさらされています。
でもあの頃ってみんな優しいのね。”それをとやかく言う子なんていなかったですね。”
でもね、薬をふられた、”しらみ”は多分地肌に今まではいただろうに、髪の上に
はいあがってくるのよね。
”しらみ”って小さかったね。こんな事、私ってきちんと覚えてるのね!!
こんな話をしたら”貴方っていくつ?”なんて言わないで下さいね。
まだまだ若々しい?です。だってこの話は昭和30年代のお話ですから・・・・・

肥え担ぎ 2004/01/15
小学校六年生 力持ちです。
トイレは男子、女子同じ処です。中央に男子トイレ、両側に
女子トイレが並んでいました。水洗トイレのない時代は汲み取り式です。
”自分達のものは自分で始末しましょう”なんて、校則?なんてははありえないのに、
誰もが当たり前と思ってたでしょうし、先生から言われたら素直ですね。だから・・・

”六時間目は肥えくみです”先生の声が伝わると”一番したくない作業”であるので
私らからはため息がもれています。
さかなやさんの童謡 ”天秤かついで ドッコイショ・・・”って
歌があるんだけど知ってるかしら?
○○改正てな事で昔、私達が三十年代に学校で習ってた歌、かなりなくなったでしょう?
たしか”荒城の月”も教科書から消えましたね。
話がそれましたが、その天秤で二人でかつぎます。先生が肥えひしゃくで
便器から汲み取り肥え桶に入れます。天秤の中央にそれを下げ、二人で
かつぐわけですから、身長は同じぐらいの人でくまないと、”傾いてこぼれる”なんて
事になります。そういう事も六年生は教わる事もなくてわかっていました。
”運ぶ距離”の話です。トイレから捨てる場所までの距離です。
何メートルなんて事はちょっと記憶?で出てきません(とにかく小学校の話なもので)
運動会が出来る広さの運動場。その向こう側にバレーボールコート
そうです。運動場を横切り、バレーボールコートを横切りその向こうに草原もあり・・・で
校舎の一番はしに”捨て場所”はありました。
かなり遠いでしょう?それを何度か往復してたのですよ。
小学校にバレーボールコートって不思議に思えたでしょう?
私らの学校は運動場側に小学校。土間を隔てて向こう側に中学校がありました。
運動場は仲良く共同で使っていました。

運動場や校舎周りの草取り。授業以外のこんな作業がありましたね。
あの頃の小学生って力仕事が出来ていました。男女の区別もなく・・・
でもこの話は田舎の小学校だからでしょうか?と思いつつ書いています。
こちらに住むようになって、同級生のM子と知り合いになりました。
子供の頃の話をしながら、びっくりした事がありました。
お歳は一緒なのにM子は”水着”で泳いでたとか・・彼女は大分市内居住
私はグット田舎、私らが泳ぐときは”パンツ”で泳いでいました。
今こそ、都会と田舎の差ってなくなってそうですが、
”水着とパンツ”事件を知ったあの日から三十年代の町の中と
田舎暮らしの違いを認めてしまいました。

学級文庫 2004/01/22
小学四年生。教室には”学級文庫”がありました。
月間雑誌の”小学四年生”が毎月 発売日に並びます。
これをクラスの三十人でまわし読みをします。
順番は確実に力関係です。男の子が最初です。
そこに春男の登場です。彼は常に一番でした。
彼の側にいつもいる夏男 彼の順番も早い?です。
あの頃の”悪がき?”って、悲惨ないじめなんてのはしてなかったですね。
どの時代でも、”ジャイアン、すねお、のび太”らしき子はいるものです。
春男・・ジャイアン 夏男・・すねお 秋男・・のび太

田舎の学校です。両親はほとんどが農家、そこにのび太らしきお寺の息子
秋男の登場です。お寺ってお金持ちだったのでしょうね。
おもちゃや雑誌、秋男は親にねだって買ってもらってたのかしら?
あの頃の少年雑誌の付録は漫画が付録で何冊もついていました。
春男はこの事実をどうして知る事になったのか、わかりませんが秋男に目をつけました。
 「学校に『冒険王』持って来て俺に見せてほしいな」
手提げ袋なんてない時代、彼はランドセルをしょって、風呂敷にいっぱいの
漫画本を運ぶはめになりました。
誰もが見たくなる漫画本が教室にあります。秋男は途端にクラスの人気者です。
彼はクラス替えのある五年生になるまで、雑誌を風呂敷に入れ、持ち込んでいました。

終業式の日、皆の楽しみな”くじ引き”がありました。
先生は教壇の床の上に 一年間の学級文庫で買った雑誌、付録を並べて
白墨で番号を入れます。数からして皆にはどうしてもゆきわたりません。
”くじ運”に皆はかけます。
当たりを引いた子は先生から受け取ります。うれしさでいっぱいです。
”くじで当たれば自分のものになる”それを本当に喜んでる!!
今の子供らでは、絶対に想像できない事かも知れませんね。

三十年代、月遅れの雑誌類は古本屋に並んでたんだと思います。
父はよくN町に出かけていました。お土産に弟と私に必ず 古本を買ってきていました。
”付録のついていない雑誌”でもうれしくてたまらないお土産でした。
弟と交換しながら読んでいました。
読み終えた本は近所の仲良しのNちゃんに貸していました。
お友達でのまわし読みはあの頃では普通でした。
お隣のSちゃんのおばちゃんは、母に”私の教科書がほしい”と言いました。
あの頃の低学年の国語の教科書って、絵があちこちにのっていました。
”Sちゃんのおばちゃん”は自分の子供の絵本代わりにしたようです。

三十年代、四十年代は貸し本屋さんってのがありましたね。
雑誌や漫画などいろいろ・・・多分 借り賃が五十円くらいだったと思います。
一冊買えるお金で何冊かが読めるもので、私、良く利用していました。
”自分だけの本が誰でもが持てる時代”いいですね。今の子供って幸せですね。

皇太子妃 2004/01/24
私のあの日の事は記憶してる限りの幼い頃のニュースではダントツです。
その日教室に駆け込んだ O先生は
 「皇太子さまのお嫁さんが決まったんだよ」

天皇陛下さまと言えば”4月29日が誕生日で国旗をたてて、その日は学校はお休み”
幼かった私らが”皇室に抱いてる想い”なんて情報源が少ないだけに
ほとんどの子供は知りません。先生から説明らしき事があり、
   「美智子さまの事が職員室前にあるから・・」と先生は言われました。

昼休み、仲良しの友達らと共に行きました。
職員室の前ではニュースを聞かされた生徒らでいっぱいでした。
あれが当時の号外だったんだと思います。
和服姿の美智子さまがちょっと横向きかげんのお姿で写っていました。
とってもお綺麗で美しくてザワザワの声の中で確実にみなの答えは
一致してたと思います。
やがて次の日から ”平民から、初めてだよ”とか”粉やさんの子供なんだよ”とか、
新聞やラジオ そして親から・・
いろいろな情報を仕入れてきて、皆はこの話でもちきりになっていました。
”平民”この言葉、この時に知ったような気がします。

”ミッチーブーム”美智子さまがつけていたヘアバンドが流行になりました。
私らの田舎の学校でも女の子のオカッパ頭にヘアバンドはぴったりでした。
誰もかれもがしてたように思います。

タレントさんのファッションを真似る若者・・・
今日のテレビで”カボチャパンツ”なんてがあっていましたが、
あれって、”私らの時代の体育着ブルマ”の長めのもの・・なんて言おうものなら、
若い女性の方々から怒られるかしら? 
そして流行って言葉に対しては私は”ミッチーブーム”を
思い出しますなんて、言おうものなら、又、年が知れてしまいますよね。

登校日でした。2004/01/29
小学校の冬休みには登校日が一日だけありました。一月一日です。
あの頃は深夜まで起きてる子供なんてはいませんでしたから、正月の登校日なんては
何とも感じなかったと思います。

女の子のズボンは”ネル”って生地があったのですね。
柄模様が結構きれいで、母親手作りがほとんどでした。運動場で遊んでる姿なんて
色とりどりのズボンが飛び回っていました。頭には”ぼうくう頭巾”
これも手作りが多かったようで・・・綺麗な柄は自慢でした。
やがてスカーフが売り出されて、四角形のスカーフを三角に折り、
頭にかぶりあごの処で結ぶ。そして”ぼうくう頭巾”姿の子供はいなくなりました。
小学校の女の子の上着は今の幼稚園生みたいな紺の制服がありました。
女の子の冬姿 こんな感じでした。

男の子は学生服 ダブダブの兄からのお下がり服 こんなのも普通でした。
袖口がピカピカに光っていて・・・どうしてこんな事を覚えてるのでしょう?
鼻水を出してる子供がいたのよね。
多分、全員ではないんだけど、一人や二人そんな少なさでもないのよね。
水っ鼻?ではなくて、流れ落ちない鼻水?
今の時代でそういう子供って見かけないので、原因って何だったのでしょうね。
彼らはそれを袖口でふきとるので、ピカピカに光ってくるのですね。
そんな腕白坊主の集まりが小学校でした。

講堂(今の体育館)に全校生が集まり壇上には国旗
校長先生からのお話があります。やがてクラスに戻り、担任のお話、そして下校
これだけの行事をする為の登校日でした。
覚えてはいませんが、それもいつの間にか、”元旦の登校”はなくなりました。
学校では・・なんては ○○法改正案なんてのが国会に出されて成立
ってな事でしょうから、今で考えると不思議に思えること、いろいろありますね。
そんな話をしたくなるんだね。私は!!

あの頃は”一月一日で一つ歳をとる””誕生日で一つ歳をとる”と言われていました。
それを数え年齢、満年齢と言っていました。
でもこれもいつの間にか”歳は誕生日だけにとる”になっていましたね。

田舎では旧正月も元旦と同じように祝っていました。
でもこんな行事ってだんだんすたれるのですね。
旧正月を祝うなんてホントに幼い頃の話のような気がしています。

分校生と愛の餅 2004/01/31
冬休みが終わり、三学期に入ります。
恵まれない人に”愛の餅”をあげましょう。こういう行事がありました。
餅を二個ずつ学校へ持って来ましょう”が先生から伝えられてる言葉ですが
でもそこは田舎、そして農家です。お金で買える品物ってなれば別ですが
お餅ですから、どこの家庭でも沢山あったのでしょうね。
”二個ですよ”が四個、五個とお母さん達は持たせるものですから、
教室は必要以上に集まったお餅でいっぱいに、なっていました。
”愛の餅”当時、私達はこうよんでいました。
施設の子供たちに届けられてたんでしょうか。

A先生は 「明日はお弁当は持ってこなくていいですよ。お餅を焼いて食べましょう」
畳敷きの職員室がありました。四畳半位の部屋だったと思われます。
テーブルがあり、冬になると”火鉢”が置いてありましたね。
だからその火鉢でお餅を焼いて食べました。
こんな事が出来てたのも先生の優しさだったと思います。
学校を休む時は”学校を休ませて下さい”と先生に伝えねばなりません。
電話などない時代です。今、思えばホントにおかしな話ですが・・・
歩いて自分で分校まで行きました。 ”先生、今日は休ませて下さい”
お友達は火鉢の周りで勉強をしています。普段でも少ない生徒が風邪引きで
休み出せば、机はガラあき!!A先生は残った生徒を職員室に入れて
授業をよくしていました。それを見て、帰りたくなくなった私らはしかられていましたね。
”学校を休ませる”その子供が自分で連絡に行く・・昔の親って暢気だったのかしら?
動けないほどのひどさでは、なかったと思われますが、テクテク 二キロ近くの
距離を歩いて分校まで行ってたのですから・・・
でもね。これが私の親だけの話ではありません。お友達の親もそうでしたから・・・
こんな具合ですから多分、何事にもめげず、強くたくましい子供が育ったんだと思います。

          ○○村 (後に市町村合併により、○○町になりました。)
          村の中央に小、中学校がありました。
          隣町に近い南側と北側の地区に分校がありました。
          A分校、B分校は一ケ月に一度は本校に行き、図書室に二つの分校生は
          集まり合同授業があっていました。三年生になれば、本校生になります。
          後に分校はなくなり、私の弟らは四キロ余りの道を本校迄通いました。

私の通った分校は後に建て替えられて今でもその場所に、校舎が残っています。
最近、弟から、インターネット上にこの分校の写真が載せられてる事を聞きました。
もしかしたら、懐かしんで訪ね歩いてる方がいらっしゃるのでしょうか。
HPの方は見せて戴きました。

地区児童会 2004/02/04
”お年寄りとの交流”最近、小学校ではこんな催しがあり、それがニュースとされています。
私達の子供の頃は”児童会”がありました。
小学生と地区の方々とのつながりが、こんな形でありました。

年間行事は六年生が主役です。上級生、下級生、縦の関係がここにはありました。
五月 その日の登校は各、地域の集合場所です。私の地区は神社でした。
地区担当の先生が来られます。出席はこちらで取られます。
そしてその日は六年生の活躍です。下級生の面倒を見なくてはなりません。
苗代を回り、”害虫駆除”をします。下級生に採集方法は六年生が教えてくれます。
大事な苗代を子供たちが”害虫駆除です”と言いつつ、田んぼに入るのですから
心配でたまらなかったでしょうね。でもどこからも苦情がなかったと思われます。
学校行事として成り立たせてくれていたのでしよう。
農家の人の優しさがここにはあったのでしょうね。
田んぼに入るのですからゴム草履です。泥を洗い落とした足に靴では困ります。
手には竹の棒、腰には瓶を下げて・・・
男の子は半ズボン。女の子はスカート。田んぼの中には水がはっていますので、
害虫採りでかかんだら、濡れてしまいます。
あの頃の女の子のパンツは裾にゴムが入れてありました。
スカートをゴムの間に挟みこみます。
体操着のブルマみたいになり、垂れ下がり濡れる事もありません。
竹の棒で苗の上をすべらします。
葉の裏側に卵をみつかれば、卵の処を葉ごとに切り取ります。
飛び立った蛾は捕らえます。瓶の中に入れます。最後の集合場所は神社です。
そこで卵、蛾の数を数えます。六年生が結果をまとめていました。
採集された、蛾を入れる瓶にはインクの空き瓶がちょうどよかったですね。
あの頃は万年筆に”インクをつけながら書く”が普通でしたね。
インクの代わりになる”スペアインク”が売り出された時は、
便利さにうれしくなったものでした。

”地区児童会”がありました。
この日は一年生から六年生までが地区の集会所に集まります。
地区のお父さん、お母さん達ら家族を招待です。
学校からは地区の先生、校長先生が出席でした。本を読む。歌を歌う。作文の発表。
お友達同士で、又は一人で・・自分の出し物の披露です。
六年生になったら”紙芝居”が出来ます。
先生から学校にそなえてある紙芝居の貸し出しを受けます。
皆が喜ぶので六年生としては”やりがい”のある、出し物です。
”紙芝居を待ち望んでる喜ぶ子供ら”がいました。
授業の合間に”クラスでのお楽しみ会”らしきものがありました。
先生が紙芝居をします。私はこの時間が大好きでした。

冬休みには一つの行事がありました。”夜回り”です。
六年生を先頭に拍子木をたたきながら、灯かりは”ちょうちん”です。
  ”火の用心 マッチ一本火事の元”
皆で声を合わせて拍子木をたたきながら 地区のお家を一軒、一軒回っていました。
拍子木をたたく子。ちょうちんを持つ子。
田舎道は細くてじゃり道で・・・足元を照らす子の責任は重大です。
”ちょうちん”とは時代劇で使われていますね。
 あの頃はこれが私達の灯かりの元でした。
もしかしたら、都会の方では私らより早く懐中電灯を手に入れてたのでしょうか。
私の家に懐中電灯があった頃は・・?残念だけど、年代は覚えていません。

学内だけの学習では終わらずに地域の住民とのかかわりを、常に保ちながら・・・
これが小学校でした。遊びも学年が入り混じって遊んでいました。
いまの子供って横つながり(同級生つながり)ばかりに、なってるとは思いませんか。
歳の違う子供と遊ぶには”我慢 従う”こんな勉強もおのずと出来るとは思いませんか。
遊びの中からでも学べる事ってありますよね。

尺貫法がメートル法に変わりました。 2004/02/06
中学生だったと思います。
先生が授業の初めに”メートル法に変わりましたから”と話されました。
その頃の数学では”換算”という勉強がありました。
坪を平方メートルに反はアールに・・てな具合に単位を変える勉強です。
”これを覚えなくてもよくなったー”何だかそんなうれしさがあったような記憶があります。
その頃までは尺間法とメートル法がどちらも通用してたのだと思います。
だから授業でこういう学習が行われてたのだと思います。

酢や醤油は一合。砂糖は一斤。やさいや肉は一匁。
長さでは尺、間、里、一里は四キロは今でも言いますね。
広さでは坪、反、町  こんな単位が使われていました。
でもどうしてか平方メートルやアールで表すより、坪、反、町の方がなじみやすく、
わかりやすいですね。家の間取りとかは、坪がいいですね。
農家での田んぼや山の広さを言うには反、町がいいですね。
メートル法に変わったとしても、正式な登記簿でもなければ、
単位は皆に伝わればいいと思いますね。

尺間法が変ったとしても、我が家では母が使うものさしは
”尺”でしたし、はかりは”匁”でしたね。それがいつの間にか、
ものさしは センチメートルになり、はかりはグラムに変っていました。
こういう商品が店頭から消えたのが原因かも、又、尺、匁では不便さを感じたのでしょう。

授業で学んだ事で今、必要でなくなったものと言えば、”算盤”でしょうね。
一列に五つの玉が並んでるだけで掛け算、割り算まで出来たのですから、
すごいと思います。算盤なる道具がいずれ、姿を消すだろうは寂しい思いがしますが、
”指先がはじく玉の動き”ではミスも起こりがちでしょう。
計算機と比べれば速さも正確さも劣りますから、やむおえませんね。
”計算尺”こういう授業もありました。”計算尺”あれっていったい何だったのでしょう。
授業以外で、お目にかかる事はいっさいありませんでした。
四年生で学んだローマ字。パソコンをするにはローマ字は絶対に必要!!
この歳になりすごく役立った学科はローマ字でした・・・なんて言えば、笑いますか?

農繁期の休暇 2004/02/08
大分県豊後高田市の田染荘では、テレビでの紹介があっていますので、
ご存知の方も多いでしょう。
水田や景色を残す事で、”田植え行事を都会の子供らに体験をさせる”で会員を募集
農家の生き残りと自然の中での体験をの都会っ子、そして親御さんの思惑が
ピッタり合って双方が喜べる行事だと思えました。
オモチャやゲームとは違う新鮮さ。子供は飛びつき魅力を感じるでしょうね。
田植えが終えてから収穫までが大変なのですが”これを、見せる、教える”は
ないのでしょうね。
昔の農家の子供の大変さを考えさせるのは無理でしょう。
機械化もされていますし、私らの子供時代とは随分違います。
”お百姓が遊び感覚で!!これも時代ですね。
しかし、こういう集いがあってもいいと思います。世の中はアイデァ勝負!!
これで農家が潤い、貴重な体験が”親子の想いで作り”の一つとして、
子供さんに将来、残ったとしたら、こんなに嬉しい事はありません。

私が子供の頃は六月中旬 学校では一週間程の農繁休暇がありました。
(今では稲は機械植えですので、苗代作りも違いますし、田植え時期も早まっています)
子供は大切な人手となります。苗運びや田植え。いやおうなく、使われます。
田植えはご近所の助け合いでした。
植え時を違えば収穫に影響しますので、Aさん宅、次の日はBさん宅
お互いの家族が手伝いに行きます。助け合いです。
休憩には手作りのお饅頭。アンパンを出すこともありました。あの頃のアンパンは十円。
両側を山に囲まれた段々田んぼもありました。
大人の休憩時間は山肌で”野いちご”狩りです。
二つに割って中を確かめて食べる。甘いのでアリにとっても大好物なのでしょう?
アリは食べたくないよね。子供ってしっかりしてるんだから・・・
姉弟がいるってのはいいですね。一人で”いちご狩り”って楽しくないですね。
弟とトゲに引っかかりながらしていましたね。
雨の日の田植えは大変でしたね。雨だからと、やめるわけにはいかないのですね。
次の日はBさん宅の田植えが待っています。

田舎のお付合いってずっと昔から お互いが助け合いながら生活をしていました。
私があの頃の両親の歳を過ぎてるわけですから、田舎に帰れば皆、お年寄りに
なっています。近所付きあいが頻繁で皆、生き生きしていますね。
お歳で農家の仕事をやめられて、お暇が一杯になってる、”おじいさま、おばあさま?”
は、あちこちのお家に集まりペチャクチャしています。
田舎に帰れば母が話してるものだから、私の子供は○○ちゃんと名前で呼ばれます。
そして”都会っぽい処”に住んでる私。親しいお付き合いがあるなら別ですが
私の子供が○○ちゃんって、知ってる人。どの位いるかしら?

田舎と都会の違いです。”ここに住んでてよかった”
そう思える老後 私、待ってて大丈夫ですよね!!

学級委員の選挙【1】 2004/02/12
私達の中学校では一年に一度クラス替えがありました。
同級生で集まった時に想い出話になる事があります。
自分では何組だったかは覚えていますが
友達と同じクラスだったかどうかは担任の先生を言えばわかりますね。
”クラスで起きた特別な事件”委員長選挙。
偶然クラスが同じだった四人が皆、覚えていました。

 「学級委員長の選挙です。」一番前の列の子に小さく切られた紙を配ります。
勉強が出来る子。とにかく人気者な子。スポーツが得意な子。
でもこれは確実に人気投票です。その年はあちこちに票が分かれてしまいました。
Aくん、Bくんの票が同数になりました。
その時S先生は
 「ようしゃー同点決勝は女の子にやってもらおう!」
これをいきな、はからいと言うべきかどうか昼休みをはさんで午後に決まりました。
A子、B子、C子,D子、四人は通学方向が同じで下校はいつも一緒でした。
私もその中の一人です。誰が言うともなく、
 「ねぇ、Bくんに投票しようよ。」 昼休みの四人の密談?は終わりました。
午後、いよいよ選挙です。Bくんに投票で私らは決まっています。
こんな秘密ごとなんてワクワクします・・。
先生が読み上げながら代表が黒板に書きます。”正”の字が並んでいきます。
 「おぅー、Aくん、女の子に人気あるんだなー」 私達の四票だけがBくんでした。
この話が出たとき、「あの票は私らが入れたんだよ」と言ったら、
他の三人がびっくりしていました。
AくんにとってもBくんにとっても”四票の秘密”知らないでしょうね。
中学生でしたからお互いに記憶には残ってるでしょうね。
B子が「クラスの歴史を作ったんだね」と言いました。

Bくんは三年生の頃、小倉の方へ転校して行きました。
Aくんは三年前、中学校のクラス会に出席しました。皆が揃うまでは一つの部屋に集まり、
あちこちでなつかしい対面をしていました。皆より遅れて入ってきた男性。”誰だろう?” 
 賑やかで茶目っ気たっぷりのE子が代表して
 「あの〜どちらさんですか?」標準語使っちゃって!!
 「あーAです」 E子が「Aくんだってよー」皆の目がいっせいに!!

私も高校卒業時までは彼を知っています。女の子にもてて、人気者だったんですよ。
それが・・・?
わぁ、わぁー、見るも無残な面影なしの姿で現れて!!その後・・・・・・
市内に住んでる同級生六人で時々会っています。クラス会に出席した私ら三人は
 「Aくんはクラス会、出るのをやめてて欲しかったね。女の子の夢をこわしたんだから・・」
自分らが太めになってて、はりのない肌をさらけだしてても、そして他人の事は言えても
自分らの事は認めないのが女性です。
その時にAくんは私達女性の間で完全に悪者になっていました。

S先生がお元気な事がわかりました。次回は招待をすると言う話がでています。
Aくんに会えた処で、”学級委員長選挙”のあの日の出来事は
先生、きっと忘れてるでしょうね!!

学級委員の選挙【2】 2004/02/13
中学二年生です。笑顔がとっても素敵な新任の先生でした。
中学生は授業毎に先生が代わるので、さほど担任は気にせずとも良いのですが
やっぱり相性のいい先生に出会えたとしたらうれしいですね。
最初のクラスの仕事は学級会です。学級委員の選挙です。
この時、私らのクラスは問題を起こしました。

男の子はAくんが選ばれました。Aくんはとっても活発でチョロチョロ?と
良く動き回る男の子でした。
授業中はわかっても、わかっていなくとも手を挙げてるようでした。
とにかく、いつでも手を挙げました。椅子から立ち上がり”ハイーハイ”と声高くだして・・・
外れると坊主頭を手でポリポリかく動作をして・・・
こんな頭をかく動きってサルがしてないかしら?私、大きくなって気がつきました!!
でもこんな憎めない愛嬌のある男の子でした。
これは男の子の仕業です。絶対に!!
学級委員長に票の一番多いAくんが選ばれました。
Aくん、片手を挙げて”ガッツポーズ”です。
 あぁーガッツポーズなんて言葉、この頃はなかったですね。

女の子があちこちでゴチョゴチョ言いました。
だって彼がふさわしいかどうかは、別として、幼いながらにも
想像出来ない結果が出てたからです。
先生もこの選挙結果では”何かがあるなぁー”とは感づいたはずです。でもその時・・・
 「Aくん、B子さんになりました。皆さん一学期間、協力しましょうね」と言いました。

次の日でした。委員長選挙のやりなおしがありました。
Aくんが辞退をしたからと説明がありました。職員会議で何かがあったのでしょう。
Aくんと先生の間でも何かが話し合われたかと思います。
私達 女の子はそういう”うわさ”をしました。
やりなおし選挙では誰でもが納得出来そうなBくんになりました。
クラスの男の子。この時、何があったのでしょう?謎のままです。

私達のあの時代は”金の卵”と言われ中学卒業で働く子供達がいました。
集団就職と言われて列車で出発していました。
私達の中学校でも二十人余りの人がいました。Aくんもそのうちの一人でした。
Aくんとはその後会いました。
自転車屋さんの子供でしたので、パンク修理に寄った時でした。
はたして青春やってたかどうかの、私の前に彼は現れました。
素敵なお嫁さんを連れて!!
中学時代のあの”ヤンチャさぶり”はどこにも見えませんでした。

三十年代あの頃は、高校へ行きたくない子供。高校へ行きたいのに行けない子供。
どちらもがいました。行きたいのに行けない子供。どうしてだったか考えられますか?
子供に働いて欲しいと言わねばならない親の辛さ。
そして今、”勉強が嫌いなので・・”と高校へは行かなくて・・・・・
すねかじりのフラフラでは困るんですけどね。

集団就職列車。金の卵。
この言葉はこの時代に生まれて、そしていつ、なくなったのでしょうか。

粉末シャンプーとジュース 2004/02/21
お風呂物語です。当時のお風呂は五右衛門風呂でした。薪で沸かしていました。
川や井戸からバケツで水をくみ込みます。当時は水道なんてはありません。
とにかく五右衛門風呂ですから、風呂の底は熱くなっています。
”火傷騒ぎ”にならぬよう、敷板は必要品です。
湧き上がった風呂の底には”すのこ”のようなものを入ります。
身体も頭を洗うにも石鹸でした。そこに粉末シャンプーが売り出されました。
泡立ちが石鹸と全然違います。洗髪には粉末シャンプーを使うようになります。
やがて液体シャンプーが売り出されます。

幼い頃・・あぁーこれはとっても小さい頃と思います。
でも記憶に残る位で私はいくつだったのでしょう?
”行水”です。庭に大きなタライを持ち出して・・・
塀のそばから覘く?そんな事をしなくともどこからでも覘けます。(笑)
私のご近所の子供達も、”行水”をしていましたね。
庭の一番広い処にタライを出して湯をいれ、父や母が洗ってくれていました。
各家庭にお風呂はあったのに”行水”とはどうしてかしら?
今になって不思議に思っています。
我が家では私らが”行水”で使ってたタライはその後、愛犬のお風呂となっていました。
屋根つきのお風呂場は後にガス風呂となって、母屋の方に作られました。
母屋からお風呂場までは、大き目の石が所々に埋め込まれてありました。
雨の日の庭を石の上をトントンとかけてお風呂へ駆け込んでたのが思い出されます。
たきぐちと五右衛門風呂は取り外されてそこは犬小屋になりました。
その後の我が家の愛犬くん達は”一戸建て?の住人”となっていました。

”物の始まり”って最初は粉末かしらね。粉末ジュースがでた時はうれしかったですね。
溶かして飲むんですけれどそれはまさしくジュースです。
オレンジジュースが水に溶かすだけで出来ます。冷蔵庫で冷やしてもらい”おやつ”です。
ジュースがものめずらしい時代ですから、子供たちにとっても、又、近所のおじさん、おばさんが
遊びに見えたら「どうぞ、どうぞ」なんて言いながらコップに入れもてなす母がいました。
大人の人らでも、”お茶のもてなし”よりはオレンジジュース?なんてだったのかしらね。
これは三十年代のお話です。

流行歌と映画 2004/02/26
小学校では”映画”と”流行歌”が禁止されていました。
映画館に行くことは許されていません。校内では教科書で学んだ歌だけしか歌えません。
歌手の歌う歌が駄目でした。
この事はつい最近になって知ったのですが仲良しの鹿児島育ちの彼女と
話しててわかりました。彼女の通う小学校でも禁じられていたそうです。
私は田舎の小学校だったからなのかと、思ってたのですが
全国の小学校で禁じられてたのでしょうか。
で、中学生になれたら、男の子も女の子も教室で歌えました。
”中学生なら大丈夫なんだ・・”と思っていました。
修学旅行のバスの中ではマイクを片手に男の子も女の子も自慢の流行歌を披露していました。

学校では”映画教室”がありました。
小学生、中学生は各教室前の廊下に男女別に一列に並びます。
学年ごとに並んで講堂(今の体育館)に移動です。
腕を組んでバタバタ、ゾロゾロなんての、移動は私らのあの頃にはありません。
整列です。
小学校、中学校が土間を隔てて同じ場所にありましたので、運動会等、
一緒の行事がいろいろありました。
ニュースに教育もの、それに今のテレビの”中学生日記”らしき劇映画がありました。
先生が時々授業をさいて”紙芝居”なんてがあって、それを喜んでた私達でしたから・・・
四時間ほどの映画教室。ホントに楽しみでしたね。
映画館はそれこそ”立ち入り禁止区域”でした。

地区には一軒の映画館がありました。私の家からはそこまでは四キロ余りあります。
夕暮れ時になると、ご近所誘い合わせて家族総出で、映画館行きでした。
行き帰りの道筋は友達とたわむれながら・・・
でも映画館では先生が時々来られるなんて話も聞かれてるのでドキドキものです。
”みつからないように・・”顔見知りの友達に会う事があるんですね。
お互いが話せない訳で、内緒ごとです。暗黙の了解です。
次の日の学校で、映画館にいたその子と”映画の話”なんては出来ないのですね。
バレたらとにかく困るんです。(笑い)先生からおしかりを受けます。(笑い)
笛吹童子。赤胴鈴之助。紅孔雀。当時の映画です。
親子で、お隣さんと一緒に・・何ともほほえましい映画館行きだったと思います。

私達の地域には分校がありました
校舎の前の運動場(遊び場)が時々映画館になる事がありました。
白い幕をはり、そこに映し出されます。地面に座ってですので敷物持参です。
あちこちの地域から集まります。こちらは野外ですから無料で映画が楽しめます。
笛吹き童子なんての誰もが見たくなる映画の上映ではありません。
でもあの頃の娯楽と言えばラジオで、映画に行けるなんて、とってもすごい事です。 
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、そして子供達、皆で楽しんでいました。
映画が終われば車の通りなんてほとんどない時代。
道いっぱいに広がって、おしゃべりしながらの帰り道でした。

行商のおばさんはかつぎやさん!2004/03/01
三十年代初め頃のお話です。
雑貨屋さんは二キロ程離れた処に一軒ありました。日用品は四キロ余り離れた処から行商の
おばさんが来ていました。
 「醤油 貸して欲しいんだけど・・」
 「お砂糖を借りれないかしら」
ご近所のお隣さん同士で、こんな助け合いがあっていました。
夕ご飯の支度にとりかかり”調味料がない”気づいた処で買いに行くには徒歩。
とても間に合いません。入れ物を持ってお隣さんへかけこんでいました。
物の貸し借りなんていい時代ですね。
でも車社会になってる今、田舎でもこんな貸し借りなんてはなくなっていますね。
お店も三十年代のあの頃に比べて地区の、中心部で大きなスーパーも出来ました。
免許を持ってる人さえいれば、一家に車が一台、もしかすれば二台さえある、時代に
田舎でもなりましたから・・・・・。

行商のおばさんは一ケ月の内、何度か注文を受けながら、日用品を持ってきていました。
大きな風呂敷を背中にしょって、お縁側や玄関先に品物を広げて売っていました。
交通手段が徒歩の時代。そんな時に行商のおばさんにはとっても助かってたと思います。
おばさんは空になった風呂敷の中にお米を買い入れていました。
農家としては品物とお米が交換できるので喜んでいました。

秋の取入れが終わるとお米は農協に供出米として出荷していました。
農協では食糧事務所の検査員により、お米は等級がつけられて、
売り上げの金額が決まります。等級がよければ売り上げ代金があがります。
(等級米がどうのこうのと、書いてますが結婚前に農協勤務がちょっとだけありましたので)
行商のおばさんに、こっそりと売られるお米は”やみ米”と言われていました。
農協に供出するより高く売れるので”やみ米”は農家にとっても得な売り込みでした。
あの頃は”やみ米”を買いに来るおばさん達が他にもいました。
かつぎやとか言っていましたがおじさんはいませんでした。
当時の女の人のお仕事だったのかも知れません。
数人のおばさんらが大きな風呂敷包みを脇に置き、列車に乗ってるのに、
出会う事がありました。
 「あのおばちゃんがつかまったよー」
こんな話もよく聞きました。取締りがあってたのでしょうか。
しばらくして農協に出荷する方が”値段が高い”とかになった頃でも”やみ米”は
ありました。だって売りたい時に売れてすぐお金として手に入りますから・・・
農協への売り渡し期間は取り入れ後の指定日以外は駄目でしたから・・・。
あの頃のこんな様子は”罪になってたのかしら?
でもね。農家とかつぎやさんとは、どちらもが、お互いを必要としてたのだと思います。

小学校六年生の修学旅行は”大分、別府”の観光地巡りでした。
持ち物の中に”お米一合”がありました。旅館にお米を持ち込んでいました。
”やみ米”とかがある時代です。
田舎から来る修学旅行生が持ち込むお米は、旅館にとって、
ありがたいものだったのでしょう。  ”お米一合を持って修学旅行”
こんな想い出を持ってらっしゃる方。どなたかいませんか?
あちらこちらの旅館でもこんな事があってたのでしょうか。
三十年代のお話なんですけど・・・・・。

修学旅行 2004/03/05
中学校は熊本方面でした。阿蘇山、熊本城、水前寺公園。
でもいろいろの事ほとんど覚えていません。
ただ 一つの事を除いては・・・
お風呂の時間です。男の子が先に入りました。女の子がお風呂に行ったら・・・
誰もいないはずの湯船の中に男の子が一人。振り向いて見上げて笑ってる!!
 キャー!!・・・お風呂前の廊下は大騒ぎ!!
先生がかけつけてAくんは、外にビンビンひびく程に叱られていました。
Aくんは、男の子の間ではボス的な存在。彼の行為を他の子はどう思ってたのでしょう。
で、今頃になり気がついたのですが、あの頃は”男湯、女湯”っての区別は
なかったのでしょうか。
それとも、修学旅行生だし、”男女の区別なんていいやぁー”なんて
旅館のご主人さんが思ってたのかしら?当時、誰も不審がる人はいませんでした。
だって私らは一つの一緒のお風呂に入れられた事だけは事実ですから・・(笑)
そしてAくんだけは途端に有名人になれました。
女の子達にとっての、いい意味での有名人にはなれてません。Aくん、残念でしたね!!

あっ、そうです。想い出作りの為に、修学旅行には”写真館のおじさん”が
私達一行の中にいました。
写真館のおじさんは”隠し撮り?”です。行く先々で私らをカメラに納めてくれます。
旅行が終われば教室の後ろに番号がふられて、写真の注文があっていましたね。
その中で欲しい写真を注文していました。
今、思えば旅行の代金、宿泊代、誰が持ってたんでしょうか。
手出しとしたら、 わぁー大変だったよね。これは中学の修学旅行のお話です。

高校は箱根、日光、東京が主な旅行先
修学旅行列車でした。全車両が修学旅行生です。蒸気機関車。煙を出しながら走ります。
線路の複線化がまだまだの頃だったのでしょう。
あちこちの駅で列車待ちの停車がありました。
私らには嬉しい事です。列車から降りて心地よい風だって当たる事が出来ました。
鼻の穴が黒くなりました。お友達誰もが・・・煙を吸ってるんでしょうか。
九州から出発なので夜行列車になります。
夜になれば、列車内の通路全体にゴザが敷かれました。
座席の上に二人、残りの二人は通路のゴザの上で寝ました。
行きと帰りは友達同士で交代です。座席の上より通路の方が幅が広いので、”楽に寝れた”
そんな想い出がうっすらと残っています。

外人さんってほとんど見かけない時代です。
日光で沢山の外国の観光客に会いました。珍しい光景です。
私らはカメラを持ってる友達を捜しました。あの頃、”カメラを持てる子供”なんて、
多分お金持ちです。
写真なんて写真館に行き、写すが当たり前の頃です。Bくんをみつけました。
あっ、彼のお家がお金持ちかどうかは知りません。カメラが持てたからお金持ち?
違うかも?やっぱり訂正しておきます。(笑)
私達の目的は外国の人と写真に写りたかったのです。
”一緒に写真に写って下さい”こう話したかったのですが私らに話せるわけがありません。
               I am a girl
               This is a pen
中学一年生の英語はこの辺りからの始まりです。高校生の英語だって、国語の教科書を
英文に直したような?英語の授業!日常的に通用できるような英語授業ではありません。
 「どうしよう?」私らは考え込んでいました。
カメラはすぐそばにあるのに・・外国の人はすぐそばで、沢山の方がおられます!
するとBくんら、男の子数人がカメラを外国の人に差出して指差して
 「キャメラ。キャメラ。」
確かにカメラとは言いませんでした。(笑い) でもね。外国の人、理解してくれて私らと
写真に納まってくれました。
外国の人とお話してる?人。 思いが伝わったそうな人。(私の同級生の男の子ですけれどね)
産まれて初めて見た光景でした。
田舎の高校生が外国の人との始めての接点なんて、まぁーこんなものです。(笑)

”修学旅行”想い出作りが出来ました。楽しかったですね・・・・・。

荷台に乗った小学生 2004/03/11
学校帰りの小学生は道路の草取り、溝の整備をしてるおじちゃんと大の仲良しでした。
 「おじちゃん、なぞなぞだけどわかる?」
おじちゃんは多分わかってそうでも、わからなそうなふりをしてました。道草が始まります。
おじさんはいつも一人作業。
場所が移動してましたが、学校帰りに私らにみつかったら、手を休めて遊んでくれていました。
道路の見回り的なお仕事があったのだと思います。
雨上がりには大きな青いミミズ!道路を横切ります。沢山いましたね。
棒をみつけては、ミミズを投げ飛ばします?
女の子が靴の先でポンと蹴る事だってできます。怖くなんてありません。
ミミズさまこそ、いい迷惑です。
恰好のあそび道具!!虫類を見てキャッと騒げるのは中学生?位からです。(笑)

雨上がりの道ではカニも出ていました。
学校の行き帰りでみつけてた小さな生き物達!
舗装されて、雑草もなくなり、石ころもなくなり、
生き物たちはいつの間にか、どこかへと姿を消したようです。
舗装されていないデコボコ道をトラック、オート三輪車が走っています。
乗用車ってはほとんど見かけません。
学校から家までは遠いのです。道草の楽しみがあります。そして・・・・・
あの頃、車が通れば手をあげて、”乗せて欲しい”とお願いしていました。
トラックやオート三輪車。何台も何台も手を上げてると”優しき運転手さん”が時には
止まってくれます。
 「ネェー○○まで帰るのよ。おじちゃん、乗せてよ」皆でお願いです。
OKが出ると、運転席から降りてきたおじさんは私らを抱き上げて荷台に乗せてくれます。
あの頃のトラックは今のように大きくはありません。
荷台の前の方でしっかりとつかまります。デコボコ道です。
車は石をふんずけてはポンポンはねます。
車に乗れた私らは学校帰りの友達を抜いて行きます。車の上から手を振り得意顔です。
追い越された子供らの”乗れていいなぁ、いいなぁ”の一杯の顔が車を見上げています。
”荷台に乗っかってる子供”叱られた事なんてありませんでしたね。
振り落とされたら?そんな事、誰も考えてなかったのでしょうね。少々危なっかしい事でも
誰も不思議がる事もなくて・・・・。

昔の親って”我が子が何かをされた・・”なんて怒る親なんてほとんど、いませんでしたね。
先生からの体罰もありの時代に、親がどなりこむ・・なんてもありません。
先生から叱られた理由が子供にはわかってたのでしょう。
ましてや、親に言いつける子供なんてはいなかったかと思われます。
とにかく、今の親ってお暇?なんです。
放っとかれてても伸び伸びと、痛みは自分の身体や気持ちの中で知り・・・
あの頃の子供、現在の子供。どちらが幸せなのでしょう?
社会的に悪い事をした子供らが”親は叱ってくれなかったー”
テレビカメラの前でこう言い放つ彼、彼女、を見かけるたびに複雑な思いに私はかられます。

田舎道で・・・学校の近くの子供では絶対にありえないお話。
通学路が遠いってこんな楽しい事があったんです。
ランドセルを放り投げての道草!子供らしい冒険!沢山ありました。
小学生って言う年代がいいのだと、私は思っています。

学校林 2004/03/18
私が通っていた中学校、高校には学校林がありました。
そこには先輩達から受け継がれて杉の植林がされていました。学校の財産です。
それには、普段のお手入れ。植えられてからの杉には下刈り作業があります。

一年に一度、全校生での下刈り作業日が設けられていました。
その日は弁当に水筒を持って”お山行き”です。
麦藁帽子、鎌、軍手、遠足とは違う持ち物が増えます。
雑草の下刈りが主な仕事ですが、山にはいろんな木があります。
”ハゼの木”はかぶれる子供がいるもので事前にそんな子供は、参加を取りやめ、
学校で自習です。  ”ハゼの木”から取れる実はロウソクになりました。
我が家のすぐ近くに大きなハゼの木があり、
時期がくれば、我が家ではおじさん達が買い取りに来ていました。
大きなカゴを腰にぶらさげて、木に登り、採っていました。
という事で私は”ハゼの木”にはめっぽう強い体質でありました。(笑い)

服装は体操着でした。
作業は苦になりませんでしたが、私達の恰好は全身白づくめです。
木の汁、葉の汁、土の汚れ・・・取れなくなるシミがつく事があります。
”買い換える”なんての贅沢はなしの頃ですから・・・
中学生。高校生。それに私らは女の子ですからわかるでしょう。(笑い)
汚れが取れなくなるのがつらかったのが思い出されています。

山についた私らは山すその方で一列に並びます。
両手の範囲内がだいたいの自分が刈り取る範囲です。
刈り取りながら山を登って行きます。杉の木に巻きついた”カズラ”根元を切りとらねば、
木は曲がったり形を変えてしまいます。
”タラの芽”天ぷらにおいしいと、今では店先に並んでいますね。
”タラの芽”はどこにあるか、知っていますか。トゲがあって、取り去るのが大変でした。
”ウドの大木”と言われるように”ウドの木”もすごく大きくなります。
田舎ではカシワモチの葉にされてた”カンカラシバ
『こう言ってましたがホントの名はわかりません』”これもトゲがあるんですね。
そうですね。一列に並んだ処で運命が決まります。(笑)
自分が刈り取る範囲に何がニョキニョキと生えてるのでしょう?
山のてっぺんに上がりきるまでわからないのですね。
でもね。お隣同士で助け合っていましたね。アシナガ蜂の巣が一番こわかったですね。
あちこちで、”どうしよう?とかキャッ”の声が女の子の間ではおきるんですね。
勇気ある優しげな男の子がかけつけて解決してくれます。
昔でも今でも”キャッー”と言えて怖がる女の子!!には助け船が必ずあります。
何といっても、男の子には”弱きものを助ける!”
てな遺伝子がチャンと組み込まれています。
どうですか?本当でしょう?男性の方々!!(笑い)

私は高校の部活動でも下刈り作業をした事があります。
顧問の先生のお家の山でした。活動資金を得る為でした。
前日から先輩のお家に泊まりました。
修学旅行のお話ではありませんが、お米に体操着(寝巻き)を持参のお泊りでした。

学校林も多分、学校の備品を買う為にあったものと思われます。
先輩から後輩へと何十年もかけて、実るお話です。
多分、あの頃のお山は売られて学校の何かに”形を変えてる”でしょう。
学校行事の中に組み込まれていた、一日の”下刈り作業日”
これも昭和三十年代のあの頃の学校だからあったお話だと思います。

固形石鹸と中性洗剤 2004/03/26
私には十歳違いの弟がいます。
”おじいさんは山にしば刈りにおばあさんは川へ洗濯に・・”
桃太郎のお話ではありませんが我が家では・・・
”おとうさんとおかあさんは山へ芝刈りに子供は川へ洗濯に行きました。”
てな昔話が?あったような気がしています。(笑い)
食事の準備。お風呂。その頃はかまどですので薪が必要でした。
小学生でしたが洗濯は私の仕事でした。
すぐ側の川では洗濯板になれそうなピッタリの石がありました。
そして近くには洗濯場になれそうな箇所が二箇所ありました。
川の側には何軒かのお家があります。
あの頃の洗濯は川で・・がほとんどだったので、お互いに皆は譲り合って、
”共同洗濯場?”は地区の皆の持ち物でした。

”オムツ洗い”は毎日なもので、夏休みの私の絵日記は”洗濯に行きました。”と
書けば確実にうまりました。(笑)
石の上に広げて固形石鹸をつけてゴシゴシもみます。かなりの力仕事です。
どこのお家でも軒先には竹の物干し竿がありました。しっかりと絞って干しました。

高校生です。家庭科の授業があっていました。教科書での授業。
その中での実習では 料理。洋裁。和裁。
期末テストだけは家庭科からのテストがあっていました。
今でも忘れられません。その時の出題に”中性洗剤の名前をあげましょう”
クラスで数名しか解答が出来ませんでした。
テレビ、洗濯機のあるお家なんて、当時はほとんどありません。
中性洗剤は洗濯機があれば、必要になる洗剤です。
確か、答えの中に”ワンダフル”があったように記憶しています。
テスト後に家庭科の先生がこんなに言われました。
 ”皆は授業中に先生の話を余り聞いていません。
           中性洗剤の答えが出来ないわけがありません!!”
          「私達、使った事、ないもんね」 
あちこちでこんな小ちゃなヒソヒソ声が聞こえたような覚えがあります。

後に台所用の洗剤も販売されました。
皿洗いなどで、揚げ物などの油がついて取り去る時に
かまどの中の灰をつけて皿洗いをしていました。台所用の洗剤が家でも買いました。
茶碗洗いがとっても楽になったのを覚えています。
いつだったか忘れましたがこの台所用洗剤が身体に害を与えるとニュースになりました。
今は沢山の台所洗剤が販売されています。
”身体に害を与える”こう言われてた洗剤。その後改良されたのだと思われます。

そんな私が洗濯についてひとつの”こだわり”がどうしてもあります。
二層式の洗濯機(絶対、これでなくてはいけません。)で洗いだけをします。
すすぎはタライでしています。そこできちんと汚れの残ってる箇所はないか・・
なんてチェックしながら、襟、袖口などは固形石鹸で手洗いをしています。
結婚以来持ち歩いていたタライが最近、水がもれ始めました。
二ヶ月ほど前、買い換えました。
多分、私の日常で一番、時間を使ってるのが洗濯だと思います。
真新しいタライを眺めながら、すごい満足感。ニヤニヤ状態です。
タライと固形石鹸。
私には絶対切り離せないもの!!私は洗濯大好き女だと思います。(笑)

狂犬病予防注射 2004/04/05
漫才ブーム時代にツービートが、”みんなで渡れば怖くない”なんて言っていましたが
人間心理というのはそんなものですね。

当時の田舎ですから?!
ほとんどのお家がペットとして犬か猫を飼っていました。
犬を飼っている人は予防注射があります。

飼ってる人にとっては義務だと思えるのですが、”無駄な?出費”になると
皆は思っていました。

予防注射の普及率はとても低かったと思います。
 という処から”犬を捕獲する”あの人らが度々来られます。
来て欲しくはない訪問者?です。
皆には”助け合いの精神”が余りあるほど、持ち合わせております。

それで、下の方の(我が家は上の方の地区だと思っております。)地区から”犬を捕まえに来たよ・・・”
すごい速さで伝わってきます。電話のない時代です。一番近い処で二キロ先の雑貨屋さんです。
口コミでしょう。聞いたらお隣さんへ知らせていました。
田舎の犬は夜は鎖でつながれますが昼間は放し飼いです。あちこちで犬を呼ぶ声がひびきます。
帰ってきた犬には隠さねばなりません。犬はね。ワンワンって吠えるんです。(笑い)
絶対に吠えない場所。山に連れて行きました。こんな時は頭の使いようです。皆、賢いんです。(笑)
我が家のクマちゃんは、”お山へ散歩”のつもりで?喜んでいました。

でも時代は移り変わり、狂犬病予防注射について関心を示すようになったのでしょう。
というより、世の中が豊かになったんだと思います。
注射代をケチらなくてもと思うようになったのでしょう。
近くの分校で獣医さんが来られるようになりました。我が家のクマは大きな犬でした。
見知らぬ犬がいっぱいで、仲良くなりたいのか、喧嘩を始めたいのか、とても受けれる状態には
なれませんでした。
これに懲りて我が家では獣医さんを呼ぶことにしました。
当日、放し飼いのクマはどこに行ったやら?いくら呼んでも帰って来ません。
田舎っていいですね。お茶を出しながら、接待が始まるんですね。犬を探すのは私らの役目
獣医さんと母はお縁側でおしゃべりが始まっていました。

いつまでも帰らぬ犬に
 「もう、注射をしたことにしようね。」と母
 「それで、いいですか?」と獣医さん
二人でお話はまとまりました。注射代を支払って、犬の鑑札札を受け取りました。
その夜、クマちゃんの首輪には鑑札札がしっかりと取り付けられました。
もうクマちゃんは捕獲される心配はありません。
でもクマちやんに噛まれた人は狂犬病の心配が残りました。(笑)

クラブ活動 2004/04/17
五年生になったら、課外授業でクラブ活動が始まります。
金曜日の六時限目。六年生、五年生が自分の好きなクラブに入り、一緒に勉強会?です。

前期と後期があるのですが、一番人気が飼育栽培部でした。
こちらの部がどんなものかは・・・・・?
栽培ですからこちらは花壇の手入れ。花を植えたり花壇の草取り。
皆の目当ては飼育。職員室の前にはインコが飼ってありました。
インコの鳥かごの掃除、餌やり。誰もがしたくてたまらないお仕事?!
犬や猫を飼ってるお家はあっても、当時小鳥を飼ってるお家なんて見当たりません。
”インコのお世話”私ずっと希望してたのに・・・競争率高いから、無理でした。
希望を書いて・・ですが四回のチャンスを全て逃してとうとうなれなかった飼育栽培部!!

で、私の入れた部が文芸部 作文や詩、読書感想文を書く・・がこの部でした。
書いた作品は自分自分の手書き。鉄筆で原紙に書き込む。これって、力を入れて書かないと
謄写版で刷り上った時、文字がでてこないんですね。ガリ版刷りです。
インクをつけて、手を汚しながら、ガリ版刷りで出来上がった皆の作品は
綴じられて部員に配られていました。
お友達の作品を読み比べる・・・なんて事をしてたように思います。

こちらの部は希望で入れた部でした。
珠算部 算盤部です。当時は算盤の級があり、この部では七級辺りから受けられました。
七級が合格出来るようにと,このクラブは皆 熱心だったような気がします。

珠算部の女の子には購買部のお仕事がありました。
当時の小学校ではお昼休みだけ開く購買部がありました。
職員室のお隣の小さな空間。購買部。
ノート、エンピツ、消しゴム等、授業で使う学用品が売られていました。
お昼休みになったら、顧問の先生に鍵を借りて、購買部の開店?です!!
六年生一人、五年生一人でチームが組まれていました。
 「ノート下さい。エンピツ下さい」
お店屋さんごっこみたいです。でもこちらは本物のお店です。こちらも飼育栽培部についで、
羨ましがられる部でした。
昼休みが終わると、売られた商品名、代金を顧問の先生へ届けていました。

当時の小学校のクラブ活動 
”生徒に責任を持たせる”そういうものが組み込まれてたように思われます。
又、そういうものを喜んで受け入れるかわいらしい無邪気な生徒の集団でした。
小学校時代 楽しかったですね。

魚屋さん 2004/04/28
県北の小さな町は漁業の町でした。
そちらの町から天秤に一杯の魚を入れて売りに来ていました

おじさんが二人、おばさんが一人、代わりばんこで来られるので魚はいつでも買えました。
最寄駅から四キロ 歩いて来るのですが”魚はいたまなかったかしら?大丈夫かしら”
新鮮さ!売る人、買う人、誰も感じてなかったのでしょうね。

猟師さんです。浅黒く日焼けをしてて、皆はクロさんって呼んでいたおじさんがいました。
誰も名前を知りません。誰かが呼んだのでしょう。そのおじさんはクロさんでした。
次男がやっと話し始めてた頃、遊び友達のけんちゃんがいました。
次男はどうしたことか、けんちゃんを”タアタア”と呼んでいました。
けんちゃんのおかあさんが
”タアタア”って呼ばれて返事をしてるのよと不思議そうに話していました。
けんちゃんと次男は”タアタアでお互いがわかりあえてたのでしょう。
クロさんは地区の皆の間ではクロさんで通じ合えていました。
まな板を借りて庭先で魚をさばいたりもしていました。
夏には縁側でところてんをついてくれていました。
お縁側で私の家族、魚屋さん一緒にところてんを食べた事もありました。

やがて地区にある魚屋さんが三輪車を買いました。
私らの地区はグルリを県道が囲ってるような処でした。
地区の魚屋さんは三輪車に魚をつんで、道路の三箇所に止まり、魚売りの始まりです。
 「魚売りに来ていますよ」と
一斗缶をカンカンと棒でたたき皆に知らせます。鍋やボールを持って買いに行きます。
私たちはこの魚屋さんを”カンカンたたき”と呼んでいました。
”カンカンたたき”の魚屋さんが来るようになってクロさんも二人のおじさん、おばさんの、
魚売りは来なくなりました。
こうして魚は田舎に住んでてもいつでも買えていました。
あの頃は鯨肉が安くて売られていました。
甘辛く煮られた鯨肉は魚とは又違った味がしていました。酢味噌で食べる”オバイケ”
これも良く食べられていて祝い膳には必ずついてたように記憶しています。

デコボコ道、バスも通ってない田舎で、肉を食べた記憶が余り残ってないのに
魚屋さんの事だけはとっても、良く覚えています。

馬、牛、馬車 2004/05/15
のどかな農園風景。ガタンガタン デコボコ道路を馬が馬車を引いて荷物を運んでいます。
農繁期には収穫されたお米を運んだりで、おじさんと馬や牛一頭でお金稼ぎが出来ていました。
馬車でお仕事はそれより、ちょっと後の年代になるかと思われます。
当時 ”馬車まあちやん”とよばれてるおじさんがいました。
まあちゃんですから”まさおさん、まさとさん、”さあ、どんな名前だったのでしょう。
他にも数人おられて、おじさんたちは、馬と馬車で地区のお家、あちこち回りお仕事をしていました。
お米とかだけでなく、とにかく荷物運びの仕事です。炭焼きがあった時代です。
切り取られた木を炭焼き釜の側まで運んでる事もありました。

学校帰りの私たちは空の馬車に乗せてもらう事もありました。

我が家にはリヤカーがありました。近くの田んぼや畑からの荷物は、よくこのリヤカーを使っていました。
父が引いて、母が後押しをして・・・私や弟はまだ幼い頃。
手助けのつもりでリヤカーの脇を押した事もあります。リヤカーはお隣さんへ貸す事もありました。

農家ではほとんどのお家が牛を飼っていました。
牛は田んぼや畑を耕したり、ちょっとした荷物運びが出来ます。
馬を飼ってる人はその馬でお仕事をしてる人達でした。
当時、牛を飼ってないお家から我が家に”牛の糞”を譲って欲しいと来る、おじさんがいました。
牛や馬の糞は立派な肥料と変ります。田んぼや畑に入れられていました。

やがて時代は移り変わり1960年代後半頃からは、牛を何頭も飼うお家がありました。
作業に使われるのではなく、”肥育牛”と呼ばれて子牛から大きく太らされて・・・
牛さまの運命はセリ市が開かれて、数人の牛飼いさんが現れます。
牛飼いさんの”確かな目”で売値が決まり・・・その後の運命は?牛肉とされてしまいます。

最近、テレビのニュース画面で牛が馬車を引いてるを見ました。
多分、日本のどこかで馬車を見かけるなんては、なかろうかと思われます。
お国の違いを見たような気持ちになりました。

蛇の目傘とこうもり傘 2004/06/07
                  あめあめ ふれふれ かあさんが
                         ジャノメでおむかえ うれしいな
                     ピチピチ チャップチャップ ランランラン

小学校での音楽の時間です。こんな歌がありました。ご存知でしょうか?
蛇の目傘がこうもり傘に変わった処で見かける事が少なくなり、
この歌も音楽教科書から消えてるのではと思われます。
舞妓さんはやっぱり蛇の目傘でしょう。そして今では映画やテレビの
時代劇でしかお目にかかる事のなくなった蛇の目傘!!

小学校低学年の頃。当時は蛇の目傘。子供用の短めの傘がありました。
この傘って重さ、あるんですね。子供って考えるんですね。 雨上がりの下校風景!!
遊んで帰るに片手がふさがってはいけません。
蛇の目傘を背中とランドセルの間に挟みこみます。
両手があきました。小さな身体にランドセル、蛇の目傘。。。
背中にしょった かっこうになってるのに、余り邪魔に感じなかった思い出。
どの位の長さだったのかしら?

折りたたみ傘を”雨が降るかしら?”の日に子供のランドセルに持たせた私がありました。
当時の子供達に”雨はどうかしら?”の日に蛇の目傘持って学校へ・・・・・は
考えられない事です。  ”重くて邪魔になる”

突然降り出した雨の日の教室。親が傘を持ってお迎えです。
今の時代の雨の日の駅の改札口。傘を持ってお迎え・・
同じような事が私が小学生の頃は、学校でありました。教室の窓は開いています。
 ”○ちゃんのおかあさんだ。おとうさんだ”で
授業中は土間の方に子供らの目がいっせいに・・・
当時は教室の前は廊下 そして土間?があり、靴箱なんてはありません。
で土間に靴が一列に並んでいました。

東側、西側その校舎の間は土間になっていて、両端にはすのこがあり、
生徒の移動は そのすのこの上を移動。雨の日のお迎えは私処は父でした。
両側の壁面には各学年の生徒の作品 図画、習字、硬筆が貼られていました。
父はこれをとっても楽しみにし、喜んでいました。

私の家から学校までは四キロ程ありました。
誰が考え出したのか、農繁期のお迎えは親にとっても大変だったのでしょう。
農作業に使うビニールシート 一メートル程に切り取りランドセルに入れておきます。
雨の日はそれを頭からかぶって・・・合羽の代わりです。
少しの雨なら大丈夫!少々の雨でも、頭と顔だけは大丈夫!

今、何気なく使ってるこうもり傘。
売り出された頃、大きさも小さいし、何て軽いんだろうと当時 感じたものでした。

”あめあめふれふれ・・・・・”
歌詞に”じゃのめ”があるばかりに、学校で今、習う歌には はいってないかと思われます。
小学生の頃、音楽の先生が”初めて習う歌”の日に歌詞の説明をしていました。
としたら・・・で思うのですが”すたれるもの”ってのに、”このような歌”もあろうかと思います。
”語り継がれるもの”の限界を感じてしまいます。

中学三年生 2004/06/25
最上級生です。”三年生です”のお役目がありました。。
お茶当番です。先生方が出勤されるまでに、お茶をわかして準備をします。
校区内のT町は一区から十三区までに分かれていました。当時の私達のクラスは二クラス
お茶当番の日は朝、早くからの登校になるので、クラスをこえて地区ごとに
メンバー分けがありました。
私達はその中でも一番遠くの地区。
一週間で交代で当番の週は 七時前の登校でした。

誰もいない静かな校舎で準備が始まります。先生から前日に鍵は受け取っています。
先生達のお湯飲みが誰であるかを覚えねばなりません。
入社早々 女性社員はお茶くみがあり、お湯飲みを覚えました。
の時、中学時代を思い出しました(笑)。
先生が出勤されるまでに机の上をきれいに拭きます。
来られた先生に”お茶をどうぞ”でお迎え?です。

私達、この頃からお茶をわかして、”目上のお方?”への接待の勉強が出来ていました(笑)。

夏休みから始まるもう一つの行事
補習授業です。高校入試に向けてです。当時の先生はよく指導をされてたと思います。

”塾”なんてない時代ですし、授業の遅れは夏休みに取り戻すだったのでしょう。
補習授業で思い出す事といったら”遠くからの登校”は自転車の許可があったことです。
当時の高校入試は国語、数学、社会、理科、英語、音楽、図工、保健体育、技術家庭の 
九教科で受験でした。

皆が困った事!不思議と覚えているのですが・・・
私達が英語の授業で習ってた先生はかなり年配の先生。
補習授業では大学を出たばかりの若い先生の教えもありました。
発音が違うのです。今、覚えてるのは girl  O先生は”ガールで”若い先生は”グール”
習ってる生徒はこんなのには、すぐ反応します。”どっちが正しいんだ!”てな感じです。
どちらも正しいのでしょう。でもこんな発音の違いに面食らってた私達でした。
そうです。
私達の間で夏休みが終わる頃には若い先生が”グール”と呼ばれていました(笑)。

掃除の時間です。クラスから選ばれた代表は二人一組になり、腕章をつけます。
皆が掃除をしてるのを見回りです。
”さぼってる子はいないか。こちらの掃除をしてください”をお願いするんです。
二年生からクラス委員の人も見回り役に混ざっていました。
注意すると言うより、あの頃の生徒って”腕章をつけた生徒”が
近づくだけで”効果あり・・”でした。

中学三年生だけにあった事。又思い出したら付け加えるかも知れません。
当時はけんかがあった処で他愛ないもので、悪がき?だって先生に
反抗してる姿を見た事がありません。うわさにのぼった事もありません。
そんな当時の生徒だった私らが今、大人になって我が子を育ててるわけで・・・
今の荒れた教室。荒れた生徒。わかりません。
”我が子がどうして”と考え込んでる親があろうかと思います。
どこがいけなかったのでしょう。考えさせられています。

弁当:学校給食:のりたま 2004/07/11
小学生。当時は弁当でした。学校給食として 脱脂粉乳のミルクがありました。
冬になれば冷たく冷えた弁当の温めがありました。
教壇の中央には先生が授業で立たれる 高めの机があります。
その上に弁当を温めの箱がおいています。大きさはクラス全員の弁当が入る位の大きさ!
畳一畳を五つに切り分けてその一つの大きさ位! 
わかりましたでしょうか?すごい表現をしています(笑)。

底が金網になってたその箱に弁当箱を並べます。新聞紙にくるまれた弁当箱が並びます。
自分のを見分けるのにどうしてたのかしら?新聞にくるまれてるんですから・・・。
当番の二人で”温め箇所”まで持って行きます。何段かに別れた段に箱を差し込みます。
一段目のクラスは次の日は二段目へ・・とどのクラスも平等に
温めがされるように、決められていました。
お昼!温められたタクワンの臭いがプーンと教室中にしてたのを、思い出します。
この弁当を温める・・に何を使ってたのでしょう。私が余りにも幼くて覚えていません(笑)。
炭では危険だろうし・・と思いながら・・
でも温められた弁当箱の新聞紙が黒っぽくなってたのをかすかに覚えています。
ご存知の方、いますでしょうか?知ってらっしゃる方がいましたら、教えて下さいね。

やがて学校給食が始まりました。パンにおかずがつきます。
パンの並んだ箱を当番さんが持って机の間を回ります。
パンの大きさはそろっていません!大小いろいろ!!
現在のパンやさんの店先では同じ大きさのパンが並んでいます。
でも当時は誰も大きさの違いに不審は抱きません(笑)。
勿論 男の子は”大きなパン”の方を選びます。
おかずはほとんどが汁物!糟汁とかがありましたね。

高校生になれば弁当になります。
丸美屋の”のりたま” 贅沢なものとなってたかも知れませんがご飯の上の”のりたま”
あの美味しさは忘れられません。
ふりかけは”鰹節、魚の粉末”と決まってたのに ”卵に海苔”が入っていました。

私のご近所に”バターを作る会社”に勤務されてた、お兄さまがいました。
 どこの企業だったのでしょう。私が幼くて覚えていません(笑)。
そのお兄さまは ご近所のお土産にバターを配っていました。
温かいご飯にバターをのせて醤油をかけて、”おいしい、おいしい”と当時は食べていました。
今、”バターに醤油”で食べてなんて言われてもきっと無理です。食べられません!!
あの頃の食生活?とにかく食べようと思いさえすれば、何でも食べれました。
バターのこんな食べ方 された事はありませんか?

お弁当の温め方。弟よりメールが届きました。私と四つ違い!
どうして私は覚えてないんでしょうと
今回も思いました。そういえば当時ののコタツが練炭でしたね。
ごめんなさいね!メール文をそのまま貼り付けしました。
弁当の温め私の時は七輪だった。練炭だったが炭のときもあったように記憶している。
でも懐かしいなあ!あのタクワンのにおいそして煮えた?佃煮なんとも言えない味?。

紙幣(お金)のお話 2004/08/17
11月に新紙幣の発行がありますね。私のホントに幼い頃のお話です。
”銭のお札”がありました。私は大好きな物を宝物として大事にする処がありました。 
ある日父が
     「お金が使えなくなるから今なら交換出来るので出しなさい」と言いました。
記憶が定かではないのですが、当時の銭のお札がとっても綺麗な図柄だったようです。
何が描かれてたのかは思い出せません。おかしな話ですけれど私は父か母にねだって
それらのお札を”宝物”としてたようです。
数枚のお札の中でどうしても、手放せないお札がありました。
幼かったのにどうしてそんな知恵がはたらいたのでしょう?
    「これだけだから・・」と大好きなお札は父に渡さず隠し持つ事にしました。
しかし、そのお札がその後、どうなったかは、全然思い出せません。
1円未満の通貨が使えなくなった頃の話だと思います。お札を娘の”宝物”にと手渡してた親。
亡くなってますので”どうして?”と尋ねる事も今ではできません!

小学校では積み立て貯金がありました。近くの金融機関と言えば、郵便局と農協
そうです。農協貯金でした。
当時父は農協に勤務していました。小学校二年生です。
担任のA先生は私にお手伝いをさせました。
貯金日が近づくと父から通帳を預かり学校へ・・A先生に渡します。
先生は三つ折の通帳にエンピツで金額を書き入れて通帳とお金を
持ち帰り父に渡していました。それがうれしくて自慢に思えていました。
分校でした。当時の生徒数は15名
積み立て貯金額と言えば、30円、50円、 そして100円の子供がほんの数名
当時の品物の値段がどの位だったのでしょう?
1円札や10円札が幅をきかせてた時代だと思います。
そう言えば私が働き始めての初任給が7千円でした。
今日のお話からはずっとずっと後のお話ですが・・・・・。

東京オリンピック 2004/08/29
昭和39年10月10日東京オリンピックが開催されました。
オリンピックの年だったと思います。我が家でもテレビが入りました。
田舎でもぞくぞくと一家に一台のテレビ!
オリンピックが田舎の生活を大きく変えていったものと思われます。
聖火は私達の小さな町にもきました。日本国中がわいたオリンピック

日の丸を仰ぎながら皆で涙したのが思い出されます。
重量挙げの三宅義信の金メダル 私は勤務先でした。皆は仕事そっちのけでわきあがりました。
ふと気づいて横を見れば近所のおじさん、おばさんが、テレビのそばにいました。
オリンピックです。誰もがテレビの前にいた処で不思議でありません。
誰もがその瞬間に立会い、一緒になり、歓声をあげました。

他の選手の活躍もあったかと思われますが、私の中ではっきりと思い出されるのが
こちらの選手です。
アテネ大会ではメダルをのがしましたが女子バレーボールでは金メダル
マラソンの円谷幸吉3位 アベベ選手の金メダル 
日本体操選手の技は”ウルトラC”と言われました。
そしてオリンピックを自分の中ではっきりと認識できたのが東京オリンピックでした。

東京オリンピックを記念して1000円銀貨が発売されました。
会社の側ではH銀行 O信用金庫とありました。
一人一枚の交換とあって、千円札を握り締めて交代で会社を抜け出しました。
銀行の前には行列がありました。
私も運良く手に入れた1000円銀貨 それを母にプレゼントしました。
田舎にいた母はとても喜んで、何度も何度も手の平にのせてたのが忘れられません。

オリンピック 国歌と共にあがる日の丸
思わず感動で涙する私です。アテネ大会 何度も日の丸を仰ぎ見ることが出来ました。
東京オリンピックの10月10日は”体育の日”となり、祝日になりました。

おせったい 2004/09/07
田舎では春、、秋、一年に二回 ”おせったい”がありました。
”おこうぼうさま”とも言っていました。
弘法大師を祭ってるのだと聞いています。

お縁側にテーブルを置き、白い布をしきます。
石造弘法大師像を中央に置き、お供え物をします。

春がお菓子ならば秋はお餅でした。お餅の時は隣保班が集まり当番宅で餅つきです。
当日はご近所誘い合わせて、大人も子供もお参りをします。
隣保班毎にありますので、地区内全てをまわるにしても、時間はそんなにかかりません。

大人の人らはおしゃべりをしながらブラブラと細い田舎道をまわります。
おせったい当番宅ではお縁側は社交場になります。
久しぶりにあえたおばさん達がペチャクチャおしゃべりです。
田舎はいいです。誰もが顔見知りです。

小学生だった私達は学校帰りに、通学路のそばでみつけたら、お参りしました。
小さな両手をあわせてお参りすれば、おばちゃんたちがお餅を二つだしてくれます。

お菓子 きのこの形をしててお砂糖がまぶさってる!
おせったいのお菓子ってこれがお決まりのようでした。

 ”おかあさんは、元気?”
田舎の人らはかなり離れた処に住んでたとしても”何々さんちの子供”ってわかっていました。
学校帰りに友達らと約束します。
帰宅するとランドセルをほおリ投げて、手作りの布の袋を持ってご近所周りです。
布の周辺を縫って紐を通して、当時は母親の手作りでした。だからいろんな柄があります。
手作り洋服やズボンの残り布です。

子供達にとっても、この行事はとってもうれしいものでした。
だって、手にはいったお菓子は誰に遠慮することなく、食べられるんですから・・・(笑)

当時のおやつに親から”お菓子”をだされるのは、めったにありません!!」

地区の行事は母が亡くなるまでは隣保班だけは、一年に二度の交流会として、
”おせったい”をしていました。私の両親も亡くなりました。
地区に貸し出していた、弘法大師像は主のいなくなった一軒家に帰ってきました。
床の間にチョコンとおかれてて、今では時折帰る私を出迎えてくれます。

国東地区(大分県国東半島)で偶然 9月5日 バス旅行をした私は
”おせったいの日”に出会えました。のぼりがたてられていました。
明治時代のものだとかで、所々穴あきの処もありでしたが・・・
こういう古いものが、代々語り継がれる事にすばらしさを感じました。
国東地区では最近では”うどん”
での接待もされてるそうです。
そしておじさまから聞きました
旧暦の3月21日 7月21日に”おせったい行事が催されてるそうです。

家庭科 初めての作品はパンツ 2004/11/03
小学校五年生 女子には家庭科の授業が始まります。
現代では男子にも家庭科授業がありますが、
当時は女子だけの授業です。

ボタンつけや、直線縫い等の練習が終えたら、初めての作品作りです。
私たちは”パンツ”を縫いました。
女の子のパンツは白の木綿!裾にはゴムが入っています。

小学校の側には生地やさんがありました。
お店に入ると畳の部屋に布地が積み上げられています。

看板があるわけではなくて、でも田舎では一軒だけの生地やさんでした。
家庭にミシンがあるお家なんてほとんどありません。全て手縫いの時代です。

私たちはパンツを縫う事になりました。先生は型紙で皆の布地を裁ってくれました。
”ブロード”と言ってたような記憶があるのですが、白地の布でパンツ作りの始まりです。
洗濯で布の端がほつれないように”袋縫い”をします。
中裏にして、端から5mm位の処を直線縫いにします。
裏返して裏側からその縫い目を隠すようにして、包み込んで今度は返し縫をします。
布の端はスッポリと 、包まれましたからもうホツレはおきません。
こんな縫い方を”袋縫い”と言います。
出来上がったパンツは はきました(笑)。私のパンツです。

こういう形のパンツをズロースとかいうのかも、知れませんが私たちは
パンツと言っていました。
田舎の学校です。新しいものは受け付けません!中学生の頃はみんな白のパンツ!!
ビートたけしが”コマネチ”と言いながら ”V型”をして見せていましたが、
このような形の下着をつけるようになったのは、高校生の頃からでした。

今回は下着の話になってしまいました(笑)。
家庭科で”始めての作品がパンツ”
小学校の家庭科授業 ”パンツを縫いました”こんな学校ありますか?
皆さんの処はどうでしたか?
パンツを縫ったのも一度だけ!手縫いのパンツを身につけたのもこの一枚だけ!!
パンツは縫うものではありません。"パンツとして売られてる”を買うものです(笑)。

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