TOP 日記 テレビ日記 昭和の町 逆流性食道炎 土曜日の料理 土曜日の料理2004年〜2006年


私の想い出にお付き合いして下さって有難う御座います。
二ページへと移りました。懐かしみながら遊んでいます。
懐かしみながら・・・という事はお歳も感じながらですが・・・(笑)
”昭和”を少しでも伝えられたらうれしく思います。


==タイトルをクリックして頂くとそれぞれがご覧になれます。==

31.アイロンとは?寝押し 32.私の小学生*冬 33.小学生の冬
34.冬は漬物の季節 35.ぬりえ 36.麦ふみ
37.つぎあて*ほころび 38.美容:テーブルマナー 39.ホタル:どんこ釣り
40.赤帽とチッキ 41.蚊帳:セミとり 42.アイスキャンデー:おむつカバー
43.ひび・しもやけ・あかぎれ 44.しば刈り・縄 45.小学一年生:図画の時間
46.お弁当 47.年賀状 48.たのもし講
49.教科書は無償


アイロンとは?寝押し 2004/11/23
中学校の制服は学生服 セーラー服です。
女の子は黒や紺色のズボンは(今ではパンツと言いますね)
スカートの変わりに許可されていました。
今の女の子の制服 短く短くですが、当時のスカート丈は膝下20cm位。
長めの方が中学生です。かっこよさは、断然 長めです。

ヒダスカートですから、ヒダはピッチリと綺麗になってなければなりません。
針を持った事もない女の子でも、おしゃれには関心があります。
女の子だったら誰もが経験があると思います。
スカートの裾の方できっちりとヒダを折りたたみながら、そこをシツケ糸で縫います。
当時、シツケ糸なるものが あったかどうかわかりませんが、我が家では木綿糸!
女の子ですもの!!私も夜 寝る前によくしていました。
シツケが終わったスカートをゴザの中にはさみます。
そして自分の敷布団の下に入れます。
”寝押しです。” スカートでもズボンでもこのようにして綺麗な折り目をつけていました。
次の朝、寝押しで綺麗についたヒダ 糸を抜き取ります。

電気アイロンが我が家にいつからあったのかは、記憶にありません。
幼い頃、洋服のシワのばしには ”コテ”を使っていました。
先の方が三角 もち手があって、それを炭火の中に入れて熱くして、アイロンです。
炭は七輪で新聞紙を丸めて上に枯れた小枝を置き、その上に
消し炭を置き、
そして炭、マッチで火を・・・ウチワであおぎながら、炭に燃え移らせます。

しばらくして今のアイロンンの形!!でも電気ではありません。
現在では蒸気アイロンとかで水を入れますね。
あんな感じで、・・でも炭火を入れるんですから、それなりの広さで蓋をして
炭火で底が暖められたらアイロンです。
底は今のアイロン形ですので、”コテ”よりはずっと進歩しています。

私が余り知らないのかと思いますが、布と言えば、キャラコ、ブロード、ネル、ナイロン、テトロン、
何だか、こんな言葉が思い出されました。(もしかしたら、重複した名前があるかも知れません。)
間違いに気づかれた方がいましたら、教えて下さいね。お願いします。
 
 注::;消し炭とは、木を燃した後、木の形が残ってるを消し壷(空気を遮断してる)に
     入れ蓋をする。 
     当時の風呂は五右衛門風呂で薪で風呂を沸かすでしたので、どのお家でも
     お風呂場の焚き口には、消し壷が置かれていました。
     木の燃えカスは黒く炭のようになり、これは火が燃え移りやすくなるので、
     火おこしには、便利なものでした。


私の小学生*冬 2005/01/17
子供達は冬が大好きです。冬というより、雪が大好きです。
私は小学生の頃、必ずする”雪の日の遊び?”がありました。
”雪ウサギ” 雪ウサギ用の板がありました。 板の上にウサギを作ります。
ウサギの形!頭、背中の丸み具合!お気に入りが出来るまで根気良く撫で回します。

目には赤いナンテンの実 耳はナンテンの葉 解けないように軒下へ・・・
雪ダルマ作りは弟と・・・雪を小さく丸めてそれを雪の上を転がします。

頭と胴 二つを作り上げて頭をのっけます。目、鼻、口は墨を差し込みます。
庭に作られた雪だるまは、お日さまに照らされていつの間にか、消えていきます。
目、鼻、口の側から・・・。


庭には父が丹念に手入れをした、ツツジやツバキ等の庭木がありました。
ツツジには雪がいっぱい積もっています。お椀とスプーンを持って”雪集め”です。
台所のお砂糖をちょっと、盗んで?雪にかけて、混ぜて、お口の中で
甘〜い雪が解けます。小学生の私 こんなのに、幸せ感を味わっています。
当時のお砂糖は高級品だったと思います。
手作りのアンコや料理に甘みをだすには、”サッカリン”を代用していました。
お薬の錠剤のような形でしたね。
砂糖の味とは微妙に違っていました。
あれっ、これは子供の私にはわからない味で、母が良く言ってた言葉です。

キャベツにつく虫から”チョウチョ”までを育てるような子供だった私は、
小鳥が飼いたくてたまりませんでした。庭木にはスズメが沢山きていました。
子供の知恵です。雪の日は餌がみつかりません!!
私はスズメを捕まえようとしていました。
30cm位のフルイ。雪を固めてお米をまきます。その上にフルイ。そして木の棒。
棒を紐で結び、ずうっとかなり遠くまで引っ張って・・・
私の姿はスズメに見えては困ります。
庭のすぐ向こうには”農機具をいれる納屋”がありました。
戸を半開きにして、紐の先を握っています。スズメがお米を食べにフルイの中に
入ったら”紐を引っ張って捕まえる・・・”無理でしたね。
スズメは賢かったですね。(笑い) お米を拾いにはきませんでしたね。
懲りずに雪が降るたびにしていました。寒さなんて忘れて・・・・・。
フルイを準備してくれたのは、親でしたし、”スズメを捕まえる方法”
これも親から教わったと思います。
う〜ん、今思えばあれは何だったのでしょう。
多分、スズメを飼ってみたい私がそこには、いたんだと思います。
小鳥をどうしても飼いたかった私がおばさんの家から ジュウシマツのつがいを
もらったのは、これより、かなり後の事でした。父の手作りの鳥かご!!
お縁側で飼っていました。
学校から帰ると、寝そべってジュウシマツを眺めてるのが大好きでした。

小学生の冬2005/01/23
四キロ余りの通学路にはトンネルが二箇所ありました。
トンネルの中には壁面から漏れ出るお水で ”ツララ”が下がります。
氷の柱?です。大きいのや小さいのや、長さの違いもあります。
手袋の手でポキンと折って口の中でポリポリと音がでます。
氷ですから、”口に入れる”が楽しいのですね。だって子供なんですから・・・
そのトンネルも今はありません。観光コースに入って大型バス(二階建てバス)が
通れないので、トンネルはくりぬかれました。

雪をぶっけあっての”雪合戦” 車はほとんど通らない時代でしたから、道路いっぱいが
公園みたいなものでした。(笑)
どの子も 左右の手袋は紐でつながれています。
その紐は肩にまわして、手は自由に動かせる長さ!!
この大人の知恵は”手袋の片方をなくされては困る”だったのでしょうか?
母に尋ねた事もなく、今ではもう聞けません。
手袋も”母の手作り”ってが多かったですね。だから五本の指にはなっていません。
毛糸で編まれた手袋は親指、そして四本の指は一緒です。
毛糸の色は一色ではなくて、二色や三色なんてのもありましたね。

学校の休み時間 クラスにはドッチボールは一つしかありません。
男の子と女の子のうばいっこ!!元気のいい女の子は男の子に混ざってしてましたね。
校舎の板塀にもたれての”おしくらまんじゅう” 
 おしくらまんじゅう、押されて泣くな! なんて言いながら体はポカポカに温まります。

といっても、多くは教室での”おはじき”や"お手玉””まりつき”でしたね。
”おはじき”は数を決めて皆で出し合い、おはじき遊びで、取れたものは”自分のもの”と、
するで、弱ければおはじきは無くなる・・・で、これはきびしい遊び!!(笑)
教室の机の後ろ あいた処で・・ですので、昼休みは場所取り。
仲良しグループの円陣があちこちに出来上がっていました。

焚き火もよくしていましたね。そこには”サツマイモ”を入れて”焼き芋”の出来上がりです。
農家でしたのでサツマイモは沢山ありました。
家の床の下に穴を掘ってありました。 サツマイモの貯蔵庫です。
そこには”モミガラ”が入れてあり、その中にサツマイモ!!床の下にもぐりこんで、
モミガラからサツマイモを取り出します。
ネズミからサツマイモはかじられたり・・・!!
でもおいしかったですね。遊び仲間と食べた”焼き芋の味”あの頃の彼、彼女、
今どちらに住まわれてるんでしょう?
両親が亡くなり、幼き頃の想いでいっぱいの、故郷を訪ねる事もなくなり、人の一生っては
こんなものなのでしょうか? 
今、お会いする機会が出来たならば・・と、懐かしさできっと盛り上がるのではないかと感じました。

冬は漬物の季節  2005/02/16
小学生の頃同じ地区に韓国から来たお嫁さんがいました。
お嫁さんは冬になるとあちこちの、お家に白菜漬けを頼まれて出かけていました。
私家も頼んでいました。 当時の漬物桶は樽です。大きな樽 二つに漬けられていました。
塩漬けされた白菜は赤唐辛子とアミの塩辛を入れて・・・で出来上がりです。
とってもおいしくてその漬物は蔵に貯蔵されていました。


蔵の鍵はとっても特殊で二度の動きをせねば、あかない鍵で
中学生で、教えてもらっても開けれず、私は蔵に入れない子供に
なりました。母はあきらめて、弟に教えこみました。
弟は難なく開けれて、私は”蔵の中の品物持ち出し”の手伝いはなくなりました。
どじっぷり、不器用さ?はこの頃からありました。(笑)
時代劇に登場しそうな蔵 当時の鍵がどんなものであったかは、
弟の帰省時に、カメラに収めて・・・このページで発表しましょうか?
とにかく、鍵の開けれない私では手に負えない仕事でありますので・・・(笑)

結婚生活を北海道で始めてた私に、冬場の漬物は必需品です。
最初の年に白菜漬け。やがてタクワン漬けそして聖護院大根を漬けるを、
ご近所のKさんから習いました。
四十年代 当時、漬物石ってなかったと思います。Kさんは大きな丸い石を
持って我が家にきました。
聖護院大根の漬物はおいしかったですね。
皮をむいて、半分に切り、干す。そして塩漬け  それを酒粕、味噌をあわせて漬け込む。
このあわせ具合で味も微妙に変わるでした。
Kさんが”あげるから”と言い、持ってきた漬物石は捨てられずに”引越し”の
たびに、コンテナの中に積まれて、私らと移動しました。
50年代の前半に私は漬物石(現在の)をお店から手に入れました。
40年代の漬物石とは川原で捜す石だったのだと考えられます。
私が小学生の頃、あの当時、我が家には丸っこい、石がいくつも蔵にころがっていましたね。

ぬりえ 2005/03/04
少女像ぬり絵画家の蔦谷喜一さんの記事を目にしました。
新聞記事で蔦谷さんとのお名前を知りました。
私が両親から買ってもらってた”ぬりえ”それには”つたや”と
書かれてたように、記憶にあります。
”ぬりえ”にかかれてた”つたや”とは蔦谷さんのお名前だったのでしょうね。
この年齢になって、こんな事実を知ったような感じがしています。

ノートが当時 十円で買えていましたので、その”ぬりえ”が
ちょうどノートの大きさでありましたので、十円であっただろうと、思われます。
”ぬりえ遊び”よくしていましたね。
女の子に自分の好みの”お洋服の色”が着せる事が出来ます。
クレヨン 12色でしたね。12色以上になったのは、いつ頃だったのでしょう?
お友達のお家に”ぬりえ”を持って遊びに・・・
皆でテーブルを囲んで”ぬりえ遊び” 女の子の遊びにはこんなのがありましたね。
低学年ではクレヨン。高学年になってクレパス 中学生になって水彩絵の具

小学生の夏休み 冬休み 当時は”夏休みの友””冬休みの友”
それだけを仕上げるのではありません。
植物採集、昆虫採集、図画、習字、漢字練習、絵日記、工作等など・・・・・
長い休暇明けには講堂(現代の体育館)で 全校生の作品展がありました。
私たちの頃の講堂ってのは入学式などの行事に全校生が集まる・・・
そうですね。集会場と言えばわかるかも知れません。
講堂でする行事と言えば”式典 作品展示会 映画教室 学芸会”等などでしたね。
今では体育館として使っていますが、私たちの頃は
体育とは”雨が降ればお休み”他の授業に繰り替え・・・なんてが
よくありました。
唯一 講堂でできた体育とはマット運動でした。跳び箱とかはありませんでした。

金賞、銀賞、銅賞、すぐれた作品には賞状授与がありました。
そんな作品の中に”ぬりえ”を持ってくる子供がいました。
私も提出作品数を、一つ増やせるわけですので、持っていっていましたね。
”ぬりえ”は自分好みの色に出来る、夢がありましたね。

麦ふみ  2005/03/27
冬のお仕事 ”麦ふみ”がありましたね。
畝に植えられた麦の上をふんでいきます。麦の茎っては折れません。
人の足?で踏まれることで強く太くのびのびと育っていきます。

三十年代の田んぼや畑には 休む時がありません。
現代では”休耕田”として補助金が出されています。当時から考えるととんでもないお話です。
お米、その取入れが終わると麦、小麦の植え付けが始まります。
稲と違って”水”は必要ありません。だから、麦や小麦は畑でも植えられます。

稲の植え付けが終わった田んぼの畦では 竹の棒で穴をあけます。
適当な間隔をあけて・・・その穴の中には”あずき、大豆”の豆まきがあります。
あずき、大豆とは畑で植え付けですが、田んぼの畦だって、収穫場所に変われます。

田んぼ、畑には菜種も植えられます。春になれば黄色いお花!! 菜の花畑です。
菜種は農協で交換が出来ました。菜種の重量に対して”菜種油”との交換が出来ていました。

田んぼでは”レンゲソウ”がありました。
牛や馬へ・・・ ワラと一緒に刻まれて混ぜられて”餌”となれます。
春にはレンゲソウの花が咲き、その上で転がりまわって遊んだ事もあります。
とっても気持ちいいです。草の香りもしたと思います。
犬と一緒にかけまわった想い出があります。

当時は農薬なんて使ってなかったですね。
稲が植えられた田んぼでは”田の草取り”があっていましたね。
稲が小さい頃は”四つんばい?”になって、手で田んぼの中をかきまわしながらの
草とりです。稲がもう少し伸びて大きくなったら”田の草とり機”の活躍です。
風車のような羽がありましたね。畝の間をコロコロところがします。
”田の草とり機”の通った跡に小さな雑草とかが田んぼ水の中に浮いていましたね。
畝の間を 縦、横とします。畝はまっすぐと、縦、横 切れずに植えられてないと
困りましたね。”田の草とり機”が前に進めません。

麦ご飯 お米と押し麦がまぜられたご飯でした。
思えば お正月、お盆、誕生日 その他 おめでたい日にしか”お米のご飯”は
ありませんでした。
私は不思議な事を覚えています。四歳だった私がどうして?と思えるのですが・・・
弟が生まれた日です。当時は自宅出産です。
お産婆さんが来ていました。その時父はお米のご飯を炊いていました。
 「どうして白いご飯なの?」と尋ねた私がいました。
弟が生まれた日 10月17日は”お米のご飯”でした。
昭和何年かはやめときましょう。私のお歳が知れてしまいますので・・・(笑)

つぎあて*ほころび 2005/04/19
あれっ?!Gパンがほつれてる? あれっ?!帽子に穴が?
何だか私達の幼い頃 小学生時代では考えられない事です。若者のファッションは変わりました。


30年代その当時は”穴があいてる”は考えられません。
肘や膝には当て布があてられ、縫ってあります。穴あきの洋服やズボンには”母の愛”がありました。

家では学校に着て行く服、お家での服がありました。
当時では珍しくありません。ほとんどのお家がそうでした。
学校から帰って最初にする事は洋服の着替えでした。それから手伝いや遊びに出かけていました。

色あせた服はポン!すりきれた靴下もポン! 今ではまだ着れます・・がポンポンと
捨てられています。
靴下 かかとが破れます。かかとの丸っこい処に”電球を入れるんですね。
丸く膨らんだかかとは、縫いやすくなりますね。裏から四角に切られた当て布で
四方をとじつけて、穴あきの処は内側に織り込んで”まつりぐけ”です。
昔の人の知恵ですね。 電球で丸く膨らんだは かかとの感じにピッタシです。
出来上がりの履き心地もピッタリです。
切れた灯りのつかない電球の一つは、捨てられずに必ず一つありましたね。
靴下の穴あきのなおしの為に・・・・・・

現代の日本では”お下がりをご近所でまわしましょう”なんては考えられない事で
”古着を集めて外国へ・・・”なんてがあっていますね。
30年代当時 田舎では古着を売りにくる、行商の方がいました。
子供服のブラウス、スカート等がありましたね。

私は子供が小学生の頃、親しくしてたご近所の方からお洋服を頂いた事があります。
制服のなかったあの頃、毎日違った洋服を・・・は子供らもうれしかったと思われました。
しかし、私は”このお洋服はどうですか?”とは言えないままで終わりました。
何だかそんな処が昭和の後半、そして平成の”豊かさ”の中で、
”子供服の譲り合い”なんての風習は消え去ったものと思われます。

美容*テーブルマナー 2005/05/09
女の子のお化粧 いつの時代からでしょう。 高校生が列車内で化粧直し!
お化粧とは鏡の前でそっと・・・なんては今ではありません?でしょうか?
教師は”見て見ぬふりですか?” 大丈夫?と問いたくなりそうな高校生も見かけます。


三十年代 高校三年生 卒業前に高校生へ美容部員さんたちからの
"美容キャンペーン”があっていました。
初めて社会に巣立つ生徒らへの温かいプレゼントであったかも知れません。


体育館に集まった三年生にお化粧の手ほどきです。
化粧水 乳液などなど 初めて手にするものばかりです。
化粧する手順 パンフレットを見ながら 椅子にかけてるモデルさんを見ながら・・・・・
興味津々の私らがその時にはいました。
化粧品、乳液らの試供品を手にできた私らが”卒業式を終えたら出来る初体験”が
当時ではお化粧でした。資生堂さんが来られた事で化粧品店で私が初めて手にしたのは
資生堂でした。
”美容キャンペーン”の化粧品会社のねらいは、新しい顧客確保があったと思われます。
私らの高校では資生堂でしたが、別の化粧品会社の高校もあったを聞きました。

卒業前のもう一つの行事に”テーブルマナー教室”がありました。
ナイフにフォークを使っての食事 始めての体験が大変だったを思い出します。

現代ではお化粧もナイフにフォークだって、学校で教えられるなんて事よりも
幼い時から自然と体験できます。
ファミリーレストランではナイフにフォーク あたりまえの世界となっています。
時代はかわりました。

ホタル:どんこ釣り 2005/06/16
稲の植わった田んぼ!! 暗くなるとホタルの乱舞!!
そうですね。乱舞と言いたくなるほど、沢山のホタルがあちこちでピカッ ピカッ
当時の田んぼ風景です。そしてちょうど今頃 6月の風景です。

我が家のすぐ側には川がありました。こちらでもホタル! お庭でもホタル!

                       ホッ ホッ ホタルこい
                            あっちの 水は 苦いぞ
                            こっちの 水は 甘いぞ
                           ホッ ホッ ホタルこい(来い)

小学生だった弟と私は 歌いながら竹ホウキを持って”ホタル狩り”です。
瓶にヨモギを水にぬらして、捕まえたホタルを入れます。
灯りを消した 部屋でホタルは光ります。次の日はそのホタル逃がして、又ホタル狩りです。
どうしてヨモギの葉を瓶に、入れたのか・・・両親から教わった事です。
捕らえたホタルを ”ヨモギの瓶に・・・”
こんな思い出のある方 いらっしゃるでしょうか?
ホタルの季節ですが、ホタルの居場所をみつけて出かけない限り 団地住まいの今では
見る事は出来ません!

我が家のすぐ側にある川は台風には、水があふれて敷地内にに入りで困りましたが
川の水は水道のない頃でしたので お風呂の水 手洗いの水と重宝でした。
田植え時の泥に汚れた手足を洗うには "持ってこいの川”でした。

この川では”どんこ釣り”で遊んでいました。
竹の竿の先に 釣り糸 釣り針 針の先にはミミズ!
澄んだ水ですので、隠れたつもりが石の影に見えます。
どんこのすぐ側で、釣り竿を チョイチョイと動かします。どんこがパクリ!釣れた!
釣れたどんこは逃がしていました。食べるなんてはしません!!
又、どんこ釣りをして遊べます。逃がしたどんこは”赤ちゃん”も産んでくれるんですね。
川には小ちゃな ”赤ちゃんどんこ”が いっぱい産まれていました。
魚釣りの好きな父は 私を連れて川へ魚釣り!! よく行きましたね。
そしていつも逃がしていました。
 ”釣りとは釣って楽しむもの”と言っていました。
我が家の側の川に住み着いてたどんこ!!
良かったですね。どんこさんはこんな気持ちから、いつも助けられていたのですよ。


赤帽とチッキ 2005/07/31 
20年代、30年代のお話です。
駅では荷物を運んでくれる”赤帽”というおじさん達がいました。
四国からお嫁に来てた母は 一年に一度里帰りをしていました。
最寄り駅は我が家から四キロ程 離れた処にありました。月明かりの中、懐中電灯をてらしながら
駅まで、父が駅まで見送ってくれていました。両親や兄弟へのお土産を一杯持って・・・・・
その時代の田舎では、車のある家なんてありません。タクシーもまだない時代でした。

小学生の私らにお土産運びは大変だったようです。
別府駅では”赤帽”の、おじさんたちがいました。お金を差し出しながら母は”お土産運び”を頼んでいました。
港までは、人力車がありました。 人力車に乗ってユラユラと・・・・・
当時 八幡浜まで、行くには ”あかつき丸””うわじま丸”の船でした。
”あかつき丸”の方が新しくて、船内が綺麗で、母は
 「残念! 今日はうわじま丸だったー」と言っていました。

チッキのお話です。
現在では宅急便の普及で 郵便小包との価格競争を、喜ばしく思っています。
宅急便のない時代では、 ”大きな荷物 遠くへ送りたい”は鉄道を利用した”チッキ”と
言われていました。
乗車券があれば、一つの荷物は無料で下車駅まで届けられる・・・と
荷物だけを送るがありました。
鉄道荷札をつけられた荷物は 駅から駅まで送られて、駅まで受け取りに行く・・・が当時でした。
宅急便の普及がいつ頃なのか、記憶にないのですが、チッキは40年代でもありましたね。
荷物が”自宅まで届けられる”なんと便利な世の中になったものでしょう。
”このような時代がありました”を知ってる人らにしか、わからない便利さでしょうか。

蚊帳*セミとり 2005/09/18 
セミの声がいつしか聞こえなくなり、朝晩が涼しくなりました。
三十年代前半は"蚊よけ”に夜は蚊帳がつられていました。 部屋の四隅には蚊帳を吊る為の紐がありました。
昼間は隅っこにたたまれてた、蚊帳が夜になれば吊ります。
蚊帳の中には布団 二枚ほど敷けましたね。
小学生だった私は 蚊帳の中で布団の上で転がって遊ぶが 楽しかったですね。

蚊帳の中に入る時は 蚊帳をゆすります。蚊帳に止まってる蚊を中には入れられません。
 ”レースのカーテンに止まってる蚊”を想像してみて下さい。
ゆすったら、飛んでいきますね。
扇風機もない時代 ”うちわであおぐ”が涼しさを感じさせる手段であって・・・
”暑くて眠れませんでした” そういう想い出が残されてないのは どうしてでしょう?
人の体って、”なければ、耐えられる”でしょうね。暑さ、寒さなんて我慢できるものでしょう。
閉め切った部屋に蚊帳 その中に布団  夏はどのお家でもこんな感じでしたね。

当時 父は穴のあいた蚊帳で三角を縫って、針金で丸い輪を作り、その輪に縫い付けて
竹の先に取り付けて”虫取り網”を作ってくれました。
セミ取りが、私の毎日で、当時はすばやかったのでしょうね。今のようにのんびりしてません。(笑)
手の平を丸めて、木に止まってるセミをつかまえたり・・・
高いところのセミは、竹の先をさいて、つっかえ棒をして、三角形の出来上がり!
そこにクモの巣を、まきつけて、セミの上にそっと、かぶせて、飛び立とうとしたセミは
クモの糸にからまって、つかまりました・・・です。
クモには巣をはってもらわねばなりません。 コガネグモって言うのでしょうか?+図鑑で調べました(笑)+
真っ黒で黄色い線があり・・このクモの糸がせみ取りには、一番でしたね。
蚊帳で作った”虫取りアミ”  クモの巣を捜す必要がありません。
好評で近所の子供にも、作ってあげてた父がいましたね。
やがて、お店に並んだ”虫取りアミ”を見た時、びっくりしましたね。父の手作りアミは、まさにこれでしたから・・・
まあ 不用品の蚊帳を利用したものでしたが・・・
小学生の夏休みは 家族が昼寝の中を抜け出して、家の周りや神社に行ってのセミとりでしたね。
絵日記にはセミとりの話で、うずまっていました。(笑)

アイスキャンデー:おむつカバー2005/11/03
掲示板で チキチキさま。あつこさまから、素敵な情報”昭和の想い出”の書き込みがありました。
私の想い出とも重なり、とっても親しみを覚え、うれしくなりました。
今回の更新はお二方の書き込みから出来上がりました。有難う御座いました。

アイスキャンデー!!
夏になれば・・・夏休みですね。農家では暑さをしのぐ為、農作業は早起きをして、太陽が照りつける頃には
作業を打ち切り、自宅へ・・・早目の昼食を終えてから、お昼寝です。
我が家では”広間”とよばれてる、八畳のお部屋。夏には畳をあげていました。するとそこには板の間!!
寝っころがると、畳の間とは違うひんやりさ!扇風機はまだありません時代!
お縁側があけられてるので、風が部屋を通り抜けます。涼しく感じられます。
コンクリートに囲まれた都会との違いです。
前置きが長くなりましたが、お昼寝の時間のこの頃、”アイスキャンデーやさん”が来ていました。
自転車にアイスボックス。アイスキャンデーの旗が立てられています。
チリンチリン・・ベルを鳴らします。道路からちょっと、離れていましたが、ベルの音はとっても
よく聞こえます。当時のアイスキャンデーとは十円でした。アンパンも十円の時代です。
十円玉を握り締めて、買いに行きました。おじさんはランニングシャツ!
夏の服装 おばさま達はスリップ一枚! これもちゃんとした、当時の夏の服装(笑)
(スリップとは言わずシミーズと言っていましたが・・・)
三十年代前半のお話です。

おむつカバー
三十年代、四十年代は赤ちゃんと言えば布おむつ!
おむつカバーとはビニール製 赤ちゃんの大きさにあわせて、三ヶ月、六ヶ月、十二ヶ月・・・とありましたね。
お腹の中で赤ちゃんが動き出す五ヶ月頃から、おむつの準備を始めます。
 ”百枚程、作ってね”
ご近所の親しくしてた、方から教わりました。 160cm位だったかしら?はっきり長さは覚えてませんが
布を切って縫います。
 ”一針一針、縫ってたら、赤ちゃんが待ち遠しくなるのよ”
お隣の奥さん、Kさんがこんなに言いました。ミシンはあったのですが、私は”手縫い”にしました。
返し縫で袋縫いです。おむつの布地の柄は、小鳥、犬、他にはどんながあったかしら?
私が選んだのは小鳥柄と犬の柄・・犬と小鳥 その頃から、そして今でも私が好きなペット(笑)
長女が誕生! 二枚一組にして、一枚を三角に折って、そちらは腰周りに!
股の方は長方形に縦長く二つ折り! 女の子ですから、お尻の方を二つ折り!
男の子は前の方を二つ折り!
どうしてかわかるでしょう? おシッコの出し方が違うんです。(笑)
男の子をお持ちのお母さん、オムツをはずした途端、ピューンとされて、周りをおシッコでぬらしましたって事
あったでしょう? 私は何度かありましたね。(笑)
股側のおむつの上にはチィシュペーパーをのせていましたね。ウンチをした時に。始末が楽だから・・と
教えられました。チィシュペーパーの上にウンチがのっかってて、くるんでポイが出来ました。
今ではチィシュペーパーは色々なメーカーがありますが、当時はクリネックス!!
結構、高価だったと、記憶しています。
赤ちゃんのお尻の為!そして何より、お母さまの”洗濯が楽です”の為。
チィシュペーパーをそんな使い道にしていました。

NHK朝のドラマ”てるてる家族”でオムツの当て方が違ってたんですね。
HPの テレビ日記ではこんな小ちゃな?”つっこみ”も時々しながら、遊んでいます。
こちらのページへも、お越し下さいね。当時のオムツ話は『こちらのテレビ日記です。』からポンとトンでいけます。(笑)
  『こちらのテレビ日記です。』

ひび・しもやけ・あかぎれ・ 2005/12/20 
冬です。先日の今年一番の寒波では、雪が少しだけ積もりました。
NHKテレビドラマ”はるか”の舞台である、湯布院は雪の多いで知られていますが、
私の住んでる処は、市街地 雪はほとんど積もりません。

冬!冬のお話をしましょう。私が小学生だったは、昭和30年代です。
当時の子供らは冬になれば、手には”ひび、しもやけ”足には”しもやけ”が出来ています。
家庭の薬箱にはロート製薬のメンソレータム・・ひびにつけていましたね。
大塚製薬のオロナイン軟膏・・ひび、しもやけにつけていましたね。
今では沢山の塗り薬がありますが、当時、家庭のの常備薬としてはこんなものでしたね。

小学校の保健室には”ワセリン”がありました。ハンドクリームです。
掃除を終えた後や昼休みに保健室に行けば、保険の先生が塗ってくれました。
ひびが水にぬれたままにしてたらいけませんらしき、事を言われていましたが、
当時ハンカチを持ってる子供って、クラスに幾人いたでしょうか?
 ぬれた手は”洋服でパッパッとふきとる?”
トイレの前には手洗い場とかはありません。トイレ前に手洗い場がありましたを、はっきりと
記憶してるは、高校生の頃ですね。(笑)
小学校、中学校は廊下をはさんで、同じ処にありましたから・・田舎の学校でしたから・・
どんな環境の中でも、何事もなくすくすく育つが人です。
手洗いがなくとも、病気にはなりません。”不潔です”なんて言葉が当時あったかしら?(笑)

農家だった父や母の手にも、”ひび、あかぎれ”があります。なぜか”しもやけ”は見ていません。
”あかぎれ”には”松ヤニ”がいいと言われていました。
家の側には神社があって、松がありました。
朝、マッチ棒と容器を持って”松ヤニ”を取りに行きました。持ち帰った"松ヤニ”を
指先の”あかぎれ”につけていました。
ご近所さんは大勢ですので、”松ヤニ”は足りません。お隣さんも神社の松から取っていました。
両親は近くの自分の山に行きました。松があります。松の幹は傷ついていなければ、”松ヤニ”が
取れません。松の木に傷つけていました。そこから”松ヤニ”が取れます。

”松ヤニ”をあかぎれに、塗っていました・・・こちらは私たちの地方だけでしょうか?

さて、母は”目もらい”が出来た時に面白いおまじないをしていました。
病院で治療を受けた事はありません。治っていました。
大豆を持ってトイレに行きます。目に大豆をあてて、
  『目もらいかと思ったら豆だった』
と床に大豆を落とします。それを何度か繰り返していました。不思議です。目もらいは消えていました。
玄関先や庭では出来ません。このおまじないをする処はトイレでなければいけません。(笑)

昔、こんな感じで目もらいを治してた私が、成人して、目もらいを
ほっていたら、大きくなって、眼科で切開して、眼帯生活をしました。
小学生のあの頃、私の目もらいは、どうして、治ったのでしょうか。(笑)
        『目もらい::麦粒腫』

しば刈り・縄 2006/03/06 
2004年3月26日桃太郎のお話から、『固形石鹸と中性洗剤』について書いていました。
さぁ、おじいさんが出かけたは”しば刈り”です。私達はたきぎ取りと言っていましたが、
これは秋から冬の仕事だったと記憶しています。夏の炎天下ではしません。

今、私は”歴史を訪ねる”の趣味の会に入っています。会員さんは年配の方が多いです。
さて、歴史と言えば、”山歩き”になります。杉林の間をぬって歩きます。
 「もったいないなぁ〜昔はこれを集めてまわったよなぁ〜」
杉木立の中には、枝打ちされた、杉の木々がそのままに、山肌に残っています。
 「そうだ、そうだ。」あちらこちらから、こんな声が・・・

枯れた杉の葉は、火付きがよくて、とっても重宝がられていましたね。
当時の煮炊きはかまど!そしてお風呂!全てたきぎを使います。
小さな小枝!杉の葉(枯れた葉っぱ)をおいて、その下には、雑誌を破いたり、新聞紙を丸めたり・・・
そこにマッチで火をつけます。
さぁ、そこには竹をくりぬいて、最後の一節だけを残して、キリで穴をあけます。
消えそうになった火に、息を吹き込み、火の勢いを出します。
これを”火ふき竹”と言っていました。

木の枝、枯れそうになった、木々の葉も大事なものです。
一メートル位に折りながら、束にします。小学校の校門の近くには
”二宮金次郎”の銅像がありましたが、現在の学校にはないでしょうか?
あのようにして、背におぶって自宅まで持ち帰ります。
”たきもの小屋”ってが、農家ではありましたね。一年中のたきものをその小屋に入れていました。
日常生活に欠かせない”たきぎ”とは、そのお家の経済状態がわかりますとも、言われていました。
我が家では山林がありましたが、持ち山のない人は、”たきもの小屋”がうまる事がなくて、
”たきぎ”をお金で買います・・・があっていました。道路に落ちてる木々を集めてる人なんても
いました。三十年代ってはこんな感じでしたね。

さて”たきぎ”は、ひとかかえ程の大きさに束ねられるんですが、”束ねる紐”とは、ワラです。
稲のモミを摘み取った後に残るがワラです。
ワラは牛や馬の餌にされて、紐にもなりました。
一掴みほどのワラを両手に持ち、真ん中でゆわえます。”束ねる紐”の出来上がりです。
一年間に使い切れなかった、たきぎの紐はワラですから、腐れて
たきぎがバラバラなんてもあります。

たきぎの紐はこれでいいとしても、縄もワラであんでいましたね。
ワラを木槌で打って、柔らかくして、・・・
小学生、中学生の私達女の子の髪型は、オカッパ、おさげ髪、ポニーテールなんてがありました。
髪の毛を三つに分けて、編むおさげ髪とは”三つあみ”で・・・
今、お話してる縄とは”二つあみ”です。(笑)
足の親指、人差し指の間にはさんで・・・二つに分けられたワラを編んでいきます。
両手をあわせて、もみながら、編み上げていきます。時々 手のひらにはツバキをつけながら・・・・・・

さて、こんな話をして、わかるでしょうか?
四十年代、五十年代産まれの私の子供だって、こんな田舎の風景なんて浮かばないでしょう。
”三丁目の夕日”が今、話題になっていますが、東京の下町が舞台でしょうか?
でもね。”三十年代の田舎”ってのも、面白い事件?っていっぱいあります。覚えてるかしら・・・の
ネタを次回はしましょうか?と言いながら・・・
HPでは主に日記の更新で、こちらは、アラアララララで更新がすすんでいません。(*^-^)ニコ

小学一年生:図画の時間 2006/05/22 
小学校一年生 国語の教科書で初めて習います”平仮名”とは・・・”はるおさん。よしこさん。”でした。
中学一年生 英語授業が始まりました。初めて習います”英語”とは・・・”Jack。Betty。”でした。

図画の時間はクレヨンで絵を書きます。分校生だった私の同級生は七名!
なぜか、皆は、”チューリップ”の絵を描いていました。画用紙いっぱいに・・・・・・
植木鉢の中に”チューリップが一本”
さて、いろんな書き方がありました。女の子がいて、お家があって、一番大きい!背が高いが植木鉢のチューリップ
今、思い出せば、おかしなお話ですが、一年生が描く絵とは、そんな感じでした。
本物のチューリップなんて、7人の誰もが、見た事がありません。
当時の田舎の庭先にある花と言えば、”百日草、ダリヤ、ケイト”を覚えています。

私は植木鉢に絵を描いていました。全体が茶色にぬられて、そこには、女の子だったり、犬だったり・・・
ホントに丁寧に丁寧に書いて、クレヨンでぬり、周りを茶色でぬり、出来上がりになっていました。
さて、担任の女先生は
 「植木鉢には絵はないのよ」そう言いながら、茶色のクレヨンを持って、
私が書いた、自慢の絵をぬりつぶしていました。
でも、懲りずに何度も何度も書いて、その度にぬりつぶされていました。
幼い私!チューリップも見た事がありません。植木鉢も見た事がありません。
絵本、教科書だけでしか知りません。本物を知りません。
植木鉢に”絵を描く”は、私の”かわいい夢”だったと思います。先生のされた事はとっても、今ではよくわかるのですが
私が繰り返したというのは、どうしても書きたかったのだと、思いましす。
一年生の”図画の時間”が”この事件?”によって、甘酸っぱい想い出?
当時の子供の私を”かわいく”思い出させてくれています。



さて、私には絵の想い出がもう一つあります。
父はとっても絵が上手で、農作業のない日は、外に出てスケッチをして帰り、家に持ち帰り、クレヨンで
色付けをしていました。
二年生の冬休みです。冬休みの宿題には図画があります。リンゴを二つ買ってきました。
父はテーブルにリンゴを並べてスケッチし始めました。
側で、見てた私は父が書いてる絵を見ながら真似て書き始めました。リンゴを見ながらではありません。
形、色塗り。真似る事が、ふだんの出来栄えよりもすばらしくなりますを、実感できてた私でした。
作品として提出した私の絵に、先生は
 「作品展に出したいのだけど・・・・」と言ってきました。そして
 「ね。リンゴの絵。これを見ながらもう一度書いてみましょう」
と言いました。先生はリンゴの色のぬりかたに不自然さを感じたようでした。
”どうして、二年生が・・・”だったようです。私は書き直しをしました。二年生とは思えない出来栄えの絵をもう一枚書き上げました。

作品展では”金色の色紙”が貼られていました。一等賞です。
どちらも女の先生でした。私の子供時代の”お絵かき?”のお話でした。

お弁当 2006/08/28
NHKドラマ”純情きらり”は東京大空襲が放送されて、戦時中のお話があっています。
先週は、小学校に勤務する事になった、桜子は”弁当泥棒”をする、男の子に気付きました。

さて、私は戦後生まれで、小学生の時代は、30年代前半であります。
”純情きらり”では弁当泥棒として、えがかれていましたが、
私のクラスでも、当時、時々、弁当を持って来れない女の子がいました。家庭の事情かと、今、思えばわかりますが
子供って”どうしてなの?”とは尋ねないんですね。
四時限目が終わると、弁当、そして食べ終われば昼休み!皆は校庭にでて、思い思いに遊んでました。
彼女は四時限目を終えたら、教室を出ていました。
小学校の弁当風景と言えば、生徒は机で・・・先生も教壇で一緒に食べていました。
担任のA先生は、彼女に気付いて、二つの弁当を持ってくるようになりました。
当時の私達の弁当箱の中身には、サツマイモだったり、冬にはお餅が入れてある事もありました。

ご飯は押し麦が入れてあり、麦ご飯です。白いお米のご飯は、特別な日でないと食べられません。
記憶に残ってるのか、それとも聞かされたのかが、定かではないのですが、弟が産まれたその日
麦ご飯ではありませんでした。私は”どうして?”と尋ねたようです。
自宅出産、お産婆さんが来ていました。
    「今日は、赤ちゃんが産まれたの〜」
と、私は聞かされたようでした。後になって思えば、白いご飯とは『お盆、正月、誕生日、』
今では麦ご飯は健康食品と言われています。当時の食卓には常に健康食品がありました。(笑)

当時の弁当箱とは”アルマイト”でした。日の丸弁当と言われますが、ほとんどの子供の弁当には
”梅干”が入れてありました。梅干でアルマイトはとけるようで、”穴があきそうな弁当箱。すでにあいてそうな弁当箱”
なんてが、ありましたが、捨てられずに大事に大事に、使われていました。

現在の農家とはあちこちに”荒地”が出来ています。当時は周りが山にかこまれた、田んぼでも、稲は植えられていました。
自転車のあるお家なんて、ほとんどなしの時代!勿論、車なんてはありません。
自宅からはかなり遠く・・・となれば、弁当持参です。山や、畑、田んぼで食べる弁当のおししかった事!
弁当箱の中には梅干!
割り箸は何時ごろ、出来たのでしょう?お箸は細い竹を切って、お箸の出来上がりです。
アルマイトの水筒にはお茶!お茶も自宅で手作りでしたね。
もう一つ、山での焚き木とりで想い出があります。農作業中はカヤ(葉)とか、鎌でも、切る事があります。
止血止めに、ヨモギの葉を、ツバキをかけながら、両手でもんで、切り傷にあてて、タオルをさいて、包帯に!
ほおかぶりですか?帽子はなくとも、タオルを頭にまいていました。
そのタオル(日本タオル)は包帯としても、使っていました。

”昭和の風景”ではお弁当のお話は何度か、書きましたが、30年代でも弁当を持って来れない、子供がいました。
各、教室の前には廊下があり、そして土間!そこには、一列に履物がそろえられていました。
ゴム靴、夏はほとんどの子供がゴム草履、あら?下駄もあったかしら?
が田舎の小学校でした。

年賀状 2007/01/10 
『あけまして おめでとう ございます』
私が年賀状を始めて書いたのは、小学校二年生です。担任の安藤先生から”年賀状の書き方”を習いました。

 『あけまして おめでとう ございます 一月一日』
先生は画用紙をハガキの大きさに切ってありました。分校でしたので同級生は七人です。
七人の机の上に”ハガキ大の画用紙”が配られました。
当時の時間割で『書き方』の時間がありました。縦書きに文字を一行づつ、ずらして書きますも、この時に学びました。
宛名書きも習った私は初めての”年賀ハガキ”を先生と、同級生に書いたと思います。
教わったとおりの、手本通りで・・・・・・・鉛筆で書きました。

郵便配達のおじさんは、自転車ではありません。
私が小学校二年生と言えば、自転車のある、お家は、あったのでしょうか・・が今の記憶です。
郵便配達のおじさんは、歩いて、一軒、一軒を配達していました。
各家庭にポストなんては、ありません。玄関の戸の隙間から、手紙類は入れられていました。
田舎のお家は鍵もありません・・が当時はありましたし・・・(30年代前半のお話ですが)

三十年代、四十年代と言えば、インク(瓶入り)があり、ペン先をインクをつけて、文字を書きますでした。
万年筆も売り出されてはいました。
父の年賀状は毛筆でした。硯をだして、水を入れて、墨をすります。
筆につけて『謹賀新年 昭和○年元旦』 それだけを書いていました。手紙はよく書いてた父が、年賀状は必ず、そして毎年
   『謹賀新年 昭和○年元旦』
だけでした。私が今、書いてる年賀状とは、近況報告を必ず、入れますので、”父の書いてた年賀状”がなぜか
逆になつかしみと共に思い出されます。
そんな父のこだわりを、もう一つ今でも覚えています。手紙の中身は万年筆書き。封筒の宛名書きはボールペンで書いていました。
小学生であった私は父に尋ねました。
 「万年筆は雨にぬれたら、文字がにじむ事がある。だから宛名はボールペンで書く。」と・・・・・・・
その父の話に頷いてた私ですが、ホントでしょうか。

田舎の私のうちの玄関先に、赤い郵便受けがかけられたのは、いつだったのかしら!
今、そんな事を考えていました。40年代前半、私は結婚しました。
そして里帰りした、時に、玄関先の郵便受けをみつけました。両親は亡くなってて尋ねられません。

ご存知の方は、いらっしゃいますでしょうか?家庭用の郵便受けの普及、販売は何時ごろだったのでしょう?


たのもし講 2007/05/25 
”昭和の風景”の久しぶりのお話は、お金です。(笑)
”金貸し”が職業として成り立つのですね。ずっとずっと、以前、こういう事を考え付いた人はいたのでしょうか。
現代は”サラ金地獄”という、在り難くもない、日本語がうまれています。
私の書いてるお話は、30年代の頃です。手元にお金をもってる方は、少しばかりの利子をつけて、
”金貸し”をしてる人もいました。
農家です。農家の収入は、まとまって、お金が入ります。米、麦、大豆等、田畑で取れた収穫物です。
サラリーマン家庭とは、農家ではほんの僅かです。

”たのもし講”というのがありました。我が家の収入は、お米、炭焼き、牛の肥育が、大きな収入源でした。
一ヶ月に一度、夜に出かけていました。
”たのもし講”のお仲間に入れてもらえていました。私は中学生くらいで、くわしい話は聞いていません。
お仲間になってる人らが、掛け金を出し合って、集まった金額をその月に一番、お金が必要な人が、借りる事ができます。
そこには、助け合いですから”利息”もつきません。
10人のお仲間でしたら、10ヶ月で終了です。10人、全ての人が借りる事が出来ました。
11ヶ月目から振り出しに戻ります。その月から、”第一回目”の始まりです。
あちこちで、”たのもし講”は、立ち上げられていました。仲良しグループで・・・・・

”お仲間に入れてもらえる”これが出来ないと、”たのもし講”の優れた集まりには加われません。
さて、現在は”身分証明書”さえ、あれば、いとも簡単に、自動受払い機から、カード一枚でお金が借りられます。
貸し金業者は、お金の返済さえあれば、良いのです。
昔の”たのもし講”のような、お互いの信頼関係で、成り立ってるものでは、ありません。

今の買い物は現金払いがほとんどです。金額が大きくなれば、ローンをくんでいます。
30年代、近くには、一軒の雑貨店、酒店がありました。
ここでの買い物は、”つけ”です。品物を受け取り、支払いは後日にが”つけ”です。
”節季より”と言っていました。お盆、暮れにまとめて、支払いますという事でした。
お盆に支払うというより、暮れ12月がほとんどでした。
さて、病院の話もしなければなりません。二軒の病院がありました。往診も気軽にする、お医者さんでした。
病院の支払いも”つけ”です。”節季より”にまとめて、支払いです。

これは、我が家だけではありません。当時の田舎では、”つけで支払い”は当たり前のお話でした。
今、考えると、お店は、仕入れ代金はどうされてたのでしょう?
病院での治療では、注射、薬がありました。お医者さんは支払いをどうされてたのでしょう?
お互いが”信頼と助け合い”で、成り立っていました。

最近、ラジオを聞いている時があります。
午前10時”小沢昭一的こころ”を聞いて、次に身の上相談が始まります。
先日、ご主人さまの相談で、お嫁さんのお母さんが、妻のカードでサラ金から借りてる。支払請求がきてるが
支払わねばならないのでしょうか・・・が相談でした。
簡単に借りられるサラ金が、はびこって、お身内まで巻き込んで、”縁をきります”の悲しい家族が
あちこちで、あるかも知れません。
お金とは怖いです。30年代のあの頃!良き時代だったと思います。懐かしんでいます。

 
教科書は無償 2008/05/04 
5月3日。連休の始まりです。満開の桜!入学式も終わり、ピカピカの一年生もそろそろ、学校生活に慣れた頃でしょう。

私の小中学生は、30年代です。
さて、学期末の最後だったでしょうか。新学期の教科書の注文書が担任から渡されていました。
兄や、姉。そして、ご近所の上級生から、”教科書を譲ってもらう”がありました。
”教科書を買います”にはお金が必要です。”譲ってもらえる”では、買いませんなので、お金は使いません。

新品の教科書で、新学期を迎えてた私が、周りの友達に刺激されて、仲良しの上級生に頼んだのは中学生でした。
彼女の教科書には、”書き込み”がありました。国語には”振り仮名”。数学には”答え”が・・・・・・
答えを知ってから解く数学には、ちょっと、戸惑いましたが、大事に使いました。
私は、綺麗な包装紙を残してて、教科書には包装紙で”ブックカバー”を作っていました。
科目ごとに別な包装紙で・・・・・・・
譲り受けた教科書は、表紙だけを見れば、ピカピカの綺麗な教科書にうまれかわっていました。

現代は無償で、国から、教科書は配られているのですね。
半年間で役目を終えた教科書は、何もおしげもなく、捨てられているのでしょうか。
”親の負担”に教科書代くらいは、出費されても・・と思うのはいけないのでしょうか。
真新しい教科書を眺めながら、”多分、捨てられるでしょう”を、不思議とも思えない、世の中
私らの育った時代とは、裕福ではありませんでした。しかし、”物を大切にしましょう”とは、身をもって学んでいました。

”昭和の風景”の中で、学級文庫のお話を書いていますが、私の小学校の教科書を、ご近所の子供さんに
あげました。そちらのお母さんが
   「N子の絵本にしたいから・・・」
と、母に頼んでいるのを聞きました。小学校の教科書は、カラーの絵付きでした。
立派な絵本代わりです。

当時のお父さん、お母さん!”教科書が、お国からいただけるのですか”とは、思いもつかなかったことでしょう。
年間、いくらの支出でしょう。
そして、その当時のお父さん、お母さんは、今、後期高齢者医療制度の導入で、苦しまねばなりません。
”義務教育ですから、親の負担はなくしましょう”があるのでしょうね。
私の小中学生の30年代をお話しました。
どちらが”良き時代”かを、考えるはそれぞれでしょうね。

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